ブリタニカ百科事典の編集長
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「ヒュー・チザム」の記事における「ブリタニカ百科事典の編集長」の解説
1899年に『セント・ジェームズ・ガゼット』編集長を退職した後、『スタンダード(英語版)』紙のライターを短期間務め、1900年に『タイムズ』紙に招かれてブリタニカ百科事典第10版の共同編集者の1人になった。チザムのほかにはサー・ドナルド・マッケンジー・ウォレス(英語版)とアーサー・ツイニング・ハッドリー(英語版)が共同編集者を務めた。ブリタニカ百科事典は1897年にホレス・エヴェレット・フーパー(英語版)が権利を買い取ってオーナーになっており、フーパーの努力もあって1902年から1903年にかけて出版された第10版(全35巻)は商業上の成功を収めた。 1903年、フーパーはチザムに新版の編集長になるよう求め、チザムは了承して作業に取り掛かった。チザムがイギリスに住み、フーパーがアメリカに住んだものの、2人の協力は成功し、1910年にはブリタニカ百科事典第11版の編集が完成した。フーパーは百科事典を大衆にも読めるよう改革したいと望み、チザムがその望みを「独学の民主化」(democratising the means of self-education)と形容したという。具体的な手法としては、1つの記事を短くして、記事数を大幅に増やした(第10版が1万7千記事だったのに対し、第11版は4万記事を誇った)。しかし、1908年に『タイムズ』紙を買い取った初代ノースクリフ男爵アルフレッド・ハームズワースがフーパーとのブリタニカ百科事典共同出版から手を引いたため、1910年にケンブリッジ大学出版局が参入し、ブリタニカ百科事典第11版は1911年に出版にこぎつけた。 ブリタニカ百科事典第11版について、『オックスフォード英国人名事典』は『オックスフォード英語辞典』と『英国人名事典』に並ぶ文化事業であると評する一方、チザム本人と同じくフェミニズム関係が弱いとしており、共産主義の内容が少なく精神分析学に至っては記事すらなかったなどの問題もはらむとした。
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