1944年以降とは? わかりやすく解説

1944年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 14:42 UTC 版)

ラバウル空襲」の記事における「1944年以降」の解説

1944年2月17日18日アメリカ軍トラック島空襲により絶対国防圏トラック島航空兵力が壊滅したため、ラバウル航空部隊トラック島引き揚げ命じられ主力65機)は直ちに、残存機22機)も2月中には引き揚げた。当時ラバウルにいた参謀中には、「これまでラバウル空襲があるときには30分位前に警報発令され、これに応じて2030機の戦闘機瞬く間離陸して邀撃し、激し空中戦演じてその都度何機かの敵を撃墜していた。従って敵機行動も臆病であった。しかし、わが戦闘機転進してしまうと、その後2~3日間は敵も半信半疑警戒していたようであるが、事情判明とともに俄かに敵機行動傍若無人となり、超低空到る所攻撃するようになった」と回想する者もいる。 この頃からアメリカ軍ラバウルその周辺島嶼日本軍基地艦砲射撃頻繁に行うようになった続いて連合軍グリーン島2月17日上陸)、アドミラルティ諸島2月29日上陸)、エミラウ島3月20日上陸)への上陸を行い包囲体制整ってラバウル方面制空権制海権連合軍側に帰したのであるその後ニューギニア戦線での連合軍ホーランジア上陸マリアナ諸島失陥ペリリューの戦いなどを経て戦線刻一刻フィリピンおよび日本本土方面へと移りラバウルは完全に戦局から置き去りにされ、その戦略的価値大きく減じたラバウル方面90,000余りもの日本陸海軍将兵篭城態勢移り、「定期便」などと呼ばれた連合軍機の機銃掃射爆撃終戦まで続いたものの、その状態で終戦迎えた

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1944年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 09:55 UTC 版)

後藤郁子」の記事における「1944年以降」の解説

42歳迎えた郁子には、詩作の筆を折らざるを得ない状況となった。夫との別れのみならず、悲しい別れ連鎖があった。原爆投下による敗戦前年に夫と義母敗戦の年に義父と義姉神戸空襲罹災)を亡くした。しかも、終戦間近空襲激しいので、東京畳んで従妹の代になっている岩手実家鳩岡崎)に疎開した。慣れない田舎暮らし戦中戦後食糧不足の為、鳩岡崎黒沢尻(今の北上市)⇒沼宮内黒沢尻新田開拓萓刈場製材所黒沢尻 などと転々と生活の拠り所探しの生活だった。その間に「右人差し指第一関節切断と言う大きな医療ミス受けた終戦契機義妹東京での生活考えたらどうかと、迎えに来たので、東京へ出てGHQ関連病院賄婦の仕事紹介してもらった暫くすると、進駐軍退去し日本病院勤務となった母子家庭の貧乏暮しだったが、生活も落ち着き徐々にとり戻して戦前詩人仲間との連絡取れた。 しかし、日々の生活追われることも多く、主に、子供成長見届ける中、詩作僅かながら続けていた。62歳(1965年)の時に第三詩集である「新井徹 詩人が歌わねばならぬとき 後藤郁子 貝殻墓地」(思潮社)を出版した。そこには、戦後詩作編として溜めた新作17作、及び、戦中詩作編として「貝殻墓地」他計15作、第一詩集午前零時」より17抜粋第二詩集真昼の花」より16抜粋、及び、新たなる随筆新井徹との道」などからなる合本詩集だった。この出版機会に、テレビ朝日の朝のワイドショウ木島則夫ショー」に呼ばれて出演第三詩集について語っている。その後雑誌の「三千里誌上に任展慧氏の「朝鮮時代内野健児」の掲載があり、更に任氏の呼びかけで、内野健児教え子佐藤悦三の他、大江満雄小田切秀雄村松武司らにより、刊行委員会立ち上がり、「新井徹の全仕事」(創社)が1983年出版されている。その刊行際し、勿論、妻として、又、詩人として協力している。当時郁子80歳で、前の年に原因不明ボヤ騒ぎ起こしたが、「全仕事」の原稿発行所送付済で、無事で、予定通り刊行された。90歳の時、「20世紀女性詩選」に選定された。1996年平成14年)に体調崩しか月入院退院後、肺炎となり身を寄せていた長女宅で死亡93歳だった。(1996年9月

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1944年以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 16:50 UTC 版)

龍鳳 (空母)」の記事における「1944年以降」の解説

1944年昭和19年3月上旬空母瑞鳳と共にサイパン・グアム方面への輸送任務命じられる当初龍鳳輸送部隊指揮することになっていたが、艦長交替に伴い瑞鳳」が指揮執ることになった軽巡洋艦能代駆逐艦3隻(雪風初霜山雲)が護衛就いた横須賀から出港した空母瑞鳳等と合流後輸送部隊南下31日能代艦隊から分離してパラオへ向かう。4月1日龍鳳駆逐艦初霜と共に艦隊から分離グアムに向かう瑞鳳隊と別れてサイパン向かった同地ではアメリカ軍艦隊出現報告があったものの各艦損害を受けることはなく、4月8日に呉へ戻った詳細は「マリアナ沖海戦」を参照 6月下旬マリアナ沖海戦参加した機動部隊乙部隊は、第二航空戦隊司令官城島高次少将指揮下の航空母艦3隻(隼鷹旗艦〕、飛鷹龍鳳)、戦艦長門重巡洋艦最上第2水雷戦隊第27駆逐隊時雨五月雨〉、夕雲型駆逐艦秋霜早霜〉)、第10戦隊(第4駆逐隊満潮野分山雲〉、第17駆逐隊浜風〉)によって編成されていた。6月19日攻撃隊を発艦させたがこの攻撃失敗終わった同日機動部隊主隊(甲部隊)はアメリカ潜水艦雷撃により大鳳翔鶴喪失した6月20日甲部隊乙部隊、前衛部隊補給部隊同一海面集合混乱きたしたところをアメリカ軍機動部隊艦載機空襲受けた。この時、龍鳳第27駆逐隊時雨随伴していた。時雨龍鳳目標として接近するTBFアベンジャー雷撃機一群発見対空砲火龍鳳守った時雨戦闘詳報の中で「敵急降下爆撃機ばかりに気を取られて、雷撃機への警戒足りない」と提言している。20日対空戦闘空母飛鷹タンカー清洋丸、玄洋丸が沈没瑞鶴隼鷹千代田榛名摩耶速吸損傷を受け、龍鳳至近弾により若干被害があった。第二航空戦隊航空機損害79機(自爆6、未帰還47不時着26であった。このマリアナ沖海戦が、龍鳳機動部隊として参加した最初で最後戦いとなったマリアナ沖海戦後は艦載機不足により、輸送艦として用いられた。11月7日空母雲龍より第一機動艦隊旗艦司令長官小沢治三郎中将)を引き継ぐが、11月15日第一機動艦隊及び第三艦隊解隊された。龍鳳日本海軍機動部隊最後旗艦となった詳細は「ヒ87船団」を参照 同年12月下旬本艦および第二水雷戦隊5隻(軽巡矢矧〉、第17駆逐隊雪風浜風磯風〉、第21駆逐隊時雨〉)はヒ87船団加入し台湾方面への輸送作戦下令される。19日連合艦隊電令時点時雨編制加えられていないが、同艦は護衛中空母雲龍搭載貨物桜花」)が米潜水艦撃沈されたあと佐世保戻っており、21日の電令で作戦参加決定した龍鳳積荷雲龍同じく有人ロケット特攻機桜花58であった。だがフィリピン向かった雲龍撃沈されたことにより、急遽龍鳳目的地台湾変更されたという経緯があった。龍鳳及び護衛艦出撃準備進めたが、矢矧補充兵内地訓練が必要として連合艦隊より作戦参加免除され雪風機関部故障が見つかり作戦不参加となる。 12月31日龍鳳タンカー9隻(黒潮丸辰和丸貨物船)、海邦丸さらわく丸光島丸、天栄丸、宗像丸、松島丸、神威海軍給油艦))、駆逐艦4隻(浜風磯風時雨旗風)、海防艦4隻(御蔵屋代倉橋第13号海防艦)とヒ87船団編成し門司港から台湾向かった1945年昭和20年1月3日アメリカ軍第38任務部隊による台湾空襲開始され船団舟山群島北方泊地退避した。さらに商船空襲受けているとの情報受けて神威より4隻(龍鳳時雨浜風磯風)に退避命令出た4日12時過ぎ、龍鳳以下は船団離脱して嵊泗列島の泗礁山泊地向かった。4隻は約1日避退したのち、6日11時にヒ87船団本隊合流する7日1127分、船団は米潜水艦ピクーダに襲撃されタンカー宗像丸が損傷受けた輸送船団の1隻海邦丸からは、龍鳳時雨率いて船団から離脱したように見えたという。実際に船団指揮官命令よるものである。13時、4隻(龍鳳時雨浜風磯風)は船団から先行するよう命じられ船団先行して台湾基隆港向かった基隆到着をもって駆逐艦3隻(時雨浜風磯風)は龍鳳護衛任務終え船団護衛戻った翌日浜風海邦丸衝突、さらに馬公市に向かう途中座礁して窮地に陥り、かろうじて本土戻った。また予定どおり高雄港向かったヒ87船団は、第38任務部隊艦載機空襲や米潜水艦攻撃大損害を受けた高雄時雨磯風分離した引き続きヒ87船団護衛していた時雨1月24日に米潜水艦ブラックフィンの雷撃撃沈されている。 11日午前磯風海防艦御蔵基隆戻った龍鳳出港遅れていたため、磯風引き続き同艦の護衛にあたることになった12日6時45分龍鳳タモ35船団護衛として基隆出港17日12時日本本土近海タモ35船団分離したのち、15時5分に磯風龍鳳分離する先行して呉へ向かった本土帰還後練習空母となったが、3月19日には、アメリカ海軍機動部隊による呉軍港空襲遭遇したロケット弾爆弾数発が命中して中破爆風により飛行甲板中央部2m隆起し、50mにわたって大亀裂が生じた本艦含め数隻(大淀日向天城龍鳳海鷹利根)が損傷した4月20日空母4隻(隼鷹天城龍鳳鳳翔)も第四予備艦指定される6月1日附で各艦(長門榛名伊勢日向天城鳳翔龍鳳)は特殊警備艦指定された。その後残存大型艦天城葛城榛名伊勢日向利根青葉大淀)等と共に浮砲台として呉軍港に係留された。乗組員は艦の修理を行うと同時に農園の手入れにも従事した7月下旬呉軍港空襲では、繋留された状態ながら対空戦闘を行う。7月24日空襲では、12.7cm高角砲81発、25mm機銃1376発、12.7cm噴進砲ロケット砲15発を発射7月28日空襲では、高角砲12発、機銃252発を発射30日呉鎮守府長官龍鳳及び空母鳳翔周辺25mm機銃配備して対空陣地を築くよう命じる。さらに空襲大破着底した巡洋艦利根大淀からも両艦が装備していた25mm単装機銃及び乗組員龍鳳鳳翔派遣された。龍鳳防空砲台となった状態で終戦迎えた空襲による損傷著しかった復員輸送艦には指定されず、1946年昭和21年4月2日呉工廠にて解体開始し9月25日完了した

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