1944年前半の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/10 06:32 UTC 版)
「ナトマ・ベイ (護衛空母)」の記事における「1944年前半の活動」の解説
カリフォルニアでの慣熟訓練の後、ナトマ・ベイは1944年1月3日までサンディエゴとハワイ間での航空機輸送に従事した。輸送任務を終えると、ナトマ・ベイは第63混成航空隊を乗せ、サンディエゴを出港して真珠湾に向かった。1月10日付けで第5水陸両用部隊中の第24護衛空母群に加わったナトマ・ベイは、第51.2任務隊とともにマーシャル諸島攻撃のため出撃した。1月31日から2月7日まではマジュロの確保の支援に努め、各種哨戒任務に就いた。2月8日、ナトマ・ベイの航空機はウォッジェ環礁とマロエラップ環礁を攻撃し、2月の残りの期間はマジュロ周辺で行動した。 3月7日、ナトマ・ベイはマジュロを出港し、3月12日にエスピリトゥサント島に到着した。3日後、第37任務部隊に合流したナトマ・ベイは、3月19日から20日にかけてカビエンに対して空襲を行った。続いてニューアイルランド島沖と北部ソロモン諸島海域を行動し、エミラウ島に対する上陸作戦(エミラウ島の無血占領)を支援した。続く三週間もの間、ナトマ・ベイはラバウルに立てこもる日本軍に圧力を加え続けるため、ソロモン海域とビスマルク諸島海域の間を行動した。 4月19日、ナトマ・ベイは第78任務部隊に転じ、ニューギニアの戦いの一環であるアイタペの戦いとホーランジアの戦いを支援し、4月22日にアイタペ(英語版)、ホーランジアおよびタナメラ湾に対する攻撃を行った。上陸作戦が行われた後、ナトマ・ベイはアイタペ地域で空中哨戒を行い、戦闘機と攻撃機を送り込んだ。ナトマ・ベイはエンジン修理のためマヌス島に下がることとなり、4月28日に帰投。一息ついた後の5月7日にマヌス島を出港して、5月18日に真珠湾に到着した。 修理を終えたナトマ・ベイは、第7空軍宛てのP-47 サンダーボルト37機を積み込み、6月5日に真珠湾を出港してマリアナ諸島方面に向かった。途中、エニウェトク環礁に立ち寄り、6月19日のマリアナ沖海戦の大勢が判明するまではサイパン島の東方洋上で待機するよう命令された。6月22日、ナトマ・ベイは25機のサンダーボルトを、占領したばかりのイズリー飛行場に向けて発進させた。翌23日、ナトマ・ベイは洋上給油のため、サイパン島の東方45マイルの地点に向かった。しかし、ナトマ・ベイはそこで日本機の空襲に遭遇する。ナトマ・ベイおよびマニラ・ベイ (USS Manila Bay, CVE-61) は空襲の主目標となったが、徹底的な対空砲火で被害を防ぎ、またナトマ・ベイに格納してあったサンダーボルトを一時しのぎの空中哨戒のため緊急発進させた。ナトマ・ベイは6月27日にエニウェトク環礁に到着し、負傷者を収容してサンディエゴに針路を向け、7月16日に到着した。
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