東京での生活
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1925年(大正14年)2月、西川光次郎の斡旋で、東京府市場協会の事務員の職を得た北斗は念願の上京を果たす。市場協会は、公設市場を経営しており、市場協会の事務所は四谷区三光町(現在の新宿5丁目、新宿ゴールデン街や花園神社の界隈)にあった。上京に際しては、北海道の余市町から西川の住んでいた東京の阿佐ヶ谷まで(汽車で丸二日かかる)を、牛乳を一杯飲んだきりで来たといい、西川の妻・文子を驚かせている。 上京後すぐに金田一京助を訪ねた北斗は、金田一より「アイヌ神謡集」を遺して19歳で死んだアイヌの少女知里幸恵とのことを聞いて衝撃を受ける。北斗はその著書の中に描かれたアイヌの失われた楽園、理想郷としての北海道の姿に感銘を受け、そのビジョンは以後の作品や思想に多大な影響を及ぼした。 また、英国聖公会の宣教師ジョン・バチラーの養女で北斗と同じくアイヌの歌人として知られるバチラー八重子や、知里幸恵の弟である知里真志保など後に親交を結ぶ同族のことを聞いたのも金田一の話を通じてであった。 その後、北斗は金田一の関係する「東京アイヌ学会」に招かれ、民俗学の中山太郎、沖縄学の伊波普猷をはじめとする、そうそうたる学者たちの前で講演をしている。この金田一の人脈から、松宮春一郎、山中峯太郎といった出版人や作家との交流もはじまった。 また、西川光次郎の修養雑誌「自働道話」の活動に深く関わる一方、当時影響力を持っていた社会運動団体「希望社」の後藤静香や、田中智学の主宰する日蓮系の仏教団体「国柱会」を訪ねて思想や宗教に対しての考察を深めていった。 このように、東京時代の北斗は、市場協会での仕事の傍ら、名士や著名人との出会いに恵まれ、学会や講演会などにも参加して知識と経験を得ただけでなく、北海道では絶えず逃れられなかった差別への苦しみからも解放されて、安穏として充実した毎日を送っていた。 だが、そんな幸福な日々は長くは続かなかった。アイヌであるという理由だけで郷里では差別されて続けてきた自分が今は逆にアイヌだからという理由だけでちやほやされていることに気づき、北斗は苦悩の末に一つの決断をする。今の幸せは本当の幸せではない、このまま人々の親切の中に甘えていてはならないと一年半過ごした幸福な東京を後にし、アイヌの復興はアイヌの手でやらねばならないと、今も貧困や差別に苦しんでいる多くの同族を救うために北斗は故郷北海道へと戻ること決意をしたのだった。
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東京での生活
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「チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル」の記事における「東京での生活」の解説
・結婚:1874年3月にマクヴェインが一時帰国から日本に戻る際、グラスゴーからボアンヴィルの婚約者アグネス・コーワンとヘンリー・ダイアーの婚約者を同伴してきた。同年6月、公使ハリー・パークス他の列席でヘンリー・ダイアーとボアンヴィルの結婚式がイギリス領事館で執り行われた。 ・『クララの明治日記』:ボアンヴィル夫妻の名前がクララ・ホイットニーの日記にたびたび登場し、とても社交的であったことが分かる。
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