きんだいち‐きょうすけ〔‐キヤウすけ〕【金田一京助】
金田一京助
金田一京助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 00:44 UTC 版)
金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年〈明治15年〉5月5日 - 1971年〈昭和46年〉11月14日)は、日本の言語学者、民族学者。日本のアイヌ語研究の本格的創始者として知られる。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。日本言語学会会長(2代目)。文学博士(東京帝国大学より取得)。栄典は従三位・勲一等・瑞宝章・文化勲章。盛岡市名誉市民[1]。歌人・石川啄木の親友であったことでも有名。
注釈
- ^ これらについて京助は後年の著書『石川啄木』の中で、喪服(羽織)は用意していたが啄木が来なかった、仕事が忙しくて葬儀に行けず、『一握の砂』の礼はそのうち会ってするつもりだったといった趣旨を記しているが、長浜功は「明らかなごまかし」と述べている[16]。
- ^ この探偵の風体を劇作家の菊田一夫をモデルにして描いていたためだが、後になってやはり菊田に失礼かと取り止めている。
- ^ 金田一耕助以前の「金田一」姓は珍姓の部類に入る姓であり、金田一春彦も苗字を「金田」と読み間違えられることは毎度のことで、特に召集されてからは軍の上官から「(苗字を金田と読んだ事から)名前が読めない」と理不尽に怒鳴られることもあったという。その「金田一」が、横溝作品の影響で誰でも読める普通の姓になった事で、それまでの名前に関する苦労もなくなったという。[要出典]
出典
- ^ a b “盛岡市名誉市民と市勢振興功労者について教えてください。”. 盛岡市公式ホームページ. 2021年6月9日閲覧。
- ^ 藤本 1991, pp. 37–51.
- ^ a b c d e 岩城之徳『石川啄木』吉川弘文館<人物叢書(新装版)>、1985年、pp.31 - 35
- ^ 藤本 1991, p. 45.
- ^ 藤本 1991, pp. 76–77.
- ^ 藤本 1991, pp. 86–88.
- ^ 岩城之徳『石川啄木伝』筑摩書房、1985年、p.58。1学年下の2年生の特待生に板垣征四郎がいた。
- ^ 藤本 1991, p. 62.
- ^ 藤本 1991, pp. 101–104.
- ^ 藤本 1991, pp. 106–109.
- ^ 藤本 1991, pp. 110–117.
- ^ 藤本 1991, pp. 117–122.
- ^ 藤本 1991, pp. 128–132.
- ^ 長浜功 2013, p. 43.
- ^ a b c d 長浜功 2013, pp. 184–188.
- ^ 長浜功 2009, p. 258.
- ^ a b 長浜功 2009, pp. 259–260.
- ^ a b 藤本 1991, p. 134.
- ^ a b c 長浜功 2009, pp. 269–274.
- ^ 長浜功 2013, pp. 32–33.
- ^ 藤本 1991, pp. 138–143.
- ^ 藤本 1991, pp. 148–151.
- ^ 須田茂『近現代アイヌ文学史論〈近代編〉』寿郎社、2018年、pp.73 - 76
- ^ 藤本 1991, pp. 165–172.
- ^ 藤本 1991, pp. 175–180.
- ^ 藤本 1991, pp. 155–161.
- ^ 岡茂雄「『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』生誕実録」『本屋風情』平凡社、1974年、109 - 119頁。
- ^ 藤本 1991, pp. 182–191.
- ^ 藤本 1991, pp. 228–231.
- ^ 郷土資料 2015, p. 15.
- ^ 藤本 1991, pp. 208–209.
- ^ 藤本 1991, pp. 237–240.
- ^ 藤本 1991, pp. 244–250.
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)125頁
- ^ 藤本 1991, pp. 17–21.
- ^ a b 小梶勝男 (2014年8月18日). “金田一京助「ことばこそ堅くとざした…」”. 読売新聞 2014年9月6日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 尹雄大アイヌを愛した国語学者、じゃなかったの?~『金田一京助と日本語の近代』 - 日本経済新聞電子版(2008年10月7日、)[リンク切れ]
- ^ 藤本 1991, pp. 210–218.
- ^ 藤本 1991, p. 123.
- ^ a b 長浜功 2013, pp. 43–44.
- ^ 長浜功 2013, pp. 51–55.
- ^ 長浜功 2013, pp. 155–158.
- ^ 長浜功 2013, pp. 166–168京助の言葉は、1939年に報知新聞に寄稿した文章からの引用。
- ^ 長浜功 2013, p. 177.
- ^ a b c d 岩城之徳『石川啄木とその時代』おうふう、1995年、pp.320 - 326
- ^ a b 『石川啄木とその時代』、pp.152 - 155
- ^ a b 『石川啄木とその時代』、pp.158 - 159
- ^ 藤本 1991, pp. 222–223.
- ^ 『立教大学新聞 第12号』 1925年(大正14年)2月20日
- ^ 『立教大学新聞 第27号』 1926年(大正15年)1月5日
- ^ 田辺忠幸『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)将棋昭和史年表(加藤久弥、越智信義)P.219
- ^ “金田一京助に関する展示資料(一部)- 盛岡市先人記念館”. www.mfca.jp. 2021年6月9日閲覧。
金田一京助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)
「義経=ジンギスカン説」の記事における「金田一京助」の解説
金田一京助はこの説に対し否定の立場に立っており、御曹司島渡の説話が蝦夷地に渡りアイヌの口にも「判官様」が知られているのを、後世の人々が知って広ませたということを聞き出し、アイヌは義経を口承文芸にしていないと述べている(『旅と伝説』所収昭和5年)。また、オキクルミはアイヌの創造神であり、アイヌにとっては迷惑な話だったが、判官=オキクルミという話をすると、内地の人が喜ぶのでそう話すことがあったとアイヌから本音を聞きだした(『アイヌ文学』昭和8年)。金田一は明治期に偽本である金史別本の作者を沢田源内と断定した。小谷部全一郎は『成吉思汗ハ源義経也・著述の動機と再論』(冨山房、1924年)を書いて金田一と応酬している。「史論としては、まず結論から入っていて、自分だけの都合のいい情報だけを抜き出して採用し、都合のよくないものは初めから棄てている。『史論』は吟味を加え客観性をもって調べなければいけない。『伝説』は人々がそのまま事実と信じるから伝わるのであって、それが正しいかどうかは分からない。この説は小谷部氏の『義経信仰』ですよ」と金田一は答えたが、小谷部に「売名行為であり、学徒としても薄弱だ」とやりかえされている。 同じ否定論者でも金田一は多少異なり、他の学者が文献を元に史実と合わせ、論説を行うというスタイルに対し、金田一は文献ではなく事象からの推論を固める方式で、その結果として義経生存説を否定するというスタイルをとった。 義経蝦夷渡海譚が江戸時代初期の寛文年間に集中していること 『御伽草子』の「御曹子島渡」や義経語りが、蝦夷地での義経伝説として波及したこと 所謂『判官びいき』が義経生存説の勃興に大きく影響したこと など、義経生存説の否定への研究は金田一の影響は少なくなかった。 しかし、金史別本を沢田源内の偽作と決めつけたり、年代を間違えたりしている事などから、語学者としては実績があるものの、史家としての信頼性は高くない。
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