重松俊章とは? わかりやすく解説

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重松俊章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/05 20:40 UTC 版)

重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年明治16年)11月18日 - 1961年昭和36年)10月6日[1][2])は、日本東洋学者真言宗豊山派僧侶

生涯

愛媛県温泉郡荏原村生まれ[3]。1894年(明治27年)に得度し、私立豊山中学校を卒業[3]。1909年(明治42年)、東洋大学本科を3年修了で退学した後、東京帝国大学文科大学史学科選科生として入学[3]。1913年(大正2年)東京帝国大学文科大学の史学科を卒業[3]

1919年6月、松山高等学校教授、1926年から1年間の中国留学後、1927年11月、九州帝国大学法文学部東洋史学講座の初代教授として赴任[3]。1944年9月、定年退官[3]。退官後、松山市にある四国八十八箇所霊場第51番札所の熊野山石手寺の第41世住職に就任した[4]。1945年10月、教え子の星野通によって、松山商科大学(現松山大学)の教授に招かれた[4]

専門は、西域史研究、中国古代の民俗学的な研究に及び、中国における邪教である白雲宗マニ教弥勒教徒・白蓮教徒などの研究のパイオニアである。

次男は九州大学名誉教授の重松泰雄[3]

著作

  • 『印度の古文明』文正社、1916年6月。 NCID BA42266493全国書誌番号:43006929 
  • 『中学校用甲種 新説東洋史』教育研究会、1932年9月。 NCID BB17362834 
    • 『中学校用甲種 新説東洋史』(訂正版)教育研究会、1933年6月。 NCID BA7815048X 
  • 「東亜古代の祓除に就て」 『社会科学の諸問題 松山商科大学開学記念論文集』松山商科大学商経研究会〈松山商大論集 第1号〉、1950年2月。 NCID BN13280947 

記念論集

脚注

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  1. ^ 「重松 俊章氏(九大名誉教授)」『毎日新聞』、1961年10月7日、11面。
  2. ^ 「重松 俊章氏(九大名誉教授)」『朝日新聞』、1961年10月7日、15面。
  3. ^ a b c d e f g 重松俊章 | 九大コレクション | 九州大学附属図書館」。
  4. ^ a b 川東竫弘「星野博士の学問と松山商科大学の歴史(その4) : ある進歩的民法・民法典研究者の学者人生」『松山大学論集』第30巻第6号、松山大学総合研究所、2019年2月、 167-219頁。

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