樺太アイヌ
樺太アイヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:40 UTC 版)
樺太アイヌも国際情勢の変化の影響を強く受けた。樺太・千島交換条約に伴って樺太がロシア領になることから、同条約発効に先立つ1875年10月、もともと樺太南部の亜庭湾周辺に居住し日本国籍を選択した108戸841名が宗谷に移住し、翌年6月には対雁(現江別市)に移された。生活環境の変化に加え、運の悪いことに1886年のコレラ、さらには天然痘の流行が追い討ちをかけ、300名以上が死去したという。1905年の日露戦争に関するポーツマス条約によって南樺太が日本領になると、1906年、漸く樺太アイヌは再び故郷の地を踏むことができるようになった。樺太アイヌは樺太庁によって当初は戸籍法上は樺太戸籍に入って樺太土人として扱われていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人と同様となり内地人と扱われるようになった。第二次世界大戦後に樺太全域がロシア(当時はソ連)の占領下となり、同国政府によって樺太アイヌのほとんどが北海道へ強制送還された。しかしながらアイヌは現在も樺太に少数ながら住んでいる。
※この「樺太アイヌ」の解説は、「アイヌの歴史」の解説の一部です。
「樺太アイヌ」を含む「アイヌの歴史」の記事については、「アイヌの歴史」の概要を参照ください。
- 樺太アイヌのページへのリンク