蝦夷管領
蝦夷管領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 04:48 UTC 版)
「蝦夷管領」も参照 『保暦間記』によると北条義時の頃、安藤五郎 が東夷地の支配として置かれたとされ、『諏方大明神画詞』では安倍氏の後胤である安藤太が蝦夷管領となったとされている。これらの史料から安東氏は、鎌倉中期頃から陸奥に広範囲の所領を有した北条氏惣領家(得宗)の被官(御内人)として蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ、北条氏を通じて鎌倉幕府の支配下に組み込まれていったものと考えられている。なお、得宗被官としての「階層」は得宗家より送り込まれた津軽曾我氏らより下位であるとする見解 がある。 また、『日蓮聖人遺文』の「種種御振舞御書」には建治元年(1275年)のこととして「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。これを、真言宗に改宗したためアイヌに殺害されたとする意見 もあるが、この頃元が樺太アイヌを攻撃したことが元史に記録されていることから、ここでいう「ゑぞ」をアイヌではなく広く北方の異民族と解し、永仁5年(1297年)5月には安藤氏がアイヌを率いて黒龍江流域に侵攻しキジ湖付近で交戦となり元に討たれたのではないかと推察する説 もある。しかし、安藤氏のアイヌに対する支配関係には疑問も出されている。 安藤五郎と安藤太の史料から、元来の惣領家であった五郎家と太郎家が並立していたと想定する見解がある。また、西浜安藤氏と外の浜安藤氏の並立を前提に、安藤氏の乱の前に「蝦夷管領」の座が外の浜安藤氏から西浜安藤氏に一時移っていたとする説もある。
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