遺文
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日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、日興と日目と日常と日頂などの信徒や弟子達もこれを書写し大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片は600点を越える。 守護国家論(しゅごこっかろん)1259年 災難興起由来(さいなんこうきゆらい)1260年 災難対治抄(さいなんたいじしょう)1260年 立正安国論(りっしょうあんこくろん)1260年 顕謗法抄(けんほうぼうしょう)1262年 法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)1272年 八宗違目抄、1272年 開目抄(かいもくしょう)1272年 真言諸宗違目抄、1272年 祈祷抄(きとうしょう)1272年 如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)1273年 顕仏未来記(けんぶつみらいき)1273年 小乗大乗分別抄、1273年 木絵二像開眼事、1273年 法華取要抄(ほっけしゅようしょう)1274年 神王国御書、1275年 種種御振舞御書、1275年 撰時抄(せんじしょう)1275年 報恩抄(ほうおんしょう)1276年 四信五品抄(ししんごほんしょう)1277年 諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)1280年 三大秘法禀承事(さんだいひほうほんしょうじ、さんだいひほうぼんじょうのこと)1282年(但し、真偽両説あり) 唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう) 本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう) 兄弟抄 下山御消息(しもやまごしょうそく) 他四百余篇。
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遺文
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「野田毅 (陸軍軍人)」の記事における「遺文」の解説
1947年12月28日 (死刑宣告後) 一 日本国民に告ぐ私は嘗て新聞紙上に向井敏明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武勇伝を以って世の中をお髄がし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。只、今般中国の裁判に於いて俘虜住民を虐殺し南京屠殺に関係ありと判定されましたことに就いては私は断乎無実を叫ぶものであります。再言します。私は南京において百人斬の屠殺をやったことはありません。此の点日本国民はどうか私を信じて頂きます。たとい私は死刑を執行されてもかまいません。微々たる野田毅の生命一個位い日本にとっては問題でありません。然し問題が一つ残ります。日本国民が胸中に怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以って今後中日間に怨みやアダや仇を絶対に止めて頂きたいのです。東洋の隣国がお互いに血を以って血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識を以ってしても解ります。今後は恩讐を越えて誠心を以って中国と手を取り、東洋平和否世界平和に邁進して頂きたいのです。中国人も人間であり東洋人です。我々日本人が至誠を以ってするなら中国人にも解らない筈はありません。至誠神に通ずると申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます。西郷さんは『敬天愛人』と申しました。何卒中国を愛して頂きます。愛と至誠には国境はありません。中国より死刑を宣告された私自身が身を捨てて中国提携の楔となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨みを抱かないと云う大愛の心境に達し得た事を以って日本国民之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。猜疑あるところに必ず戦争を誘発致します。幸い日本は武器を捨てました。武器は平和の道具でなかった事は日本に敗戦を以って神が教示されたのです。日本は世界平和の大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本に残された重大なる課題であります。それは何でしょうか。根本精神は『愛』と『至誠』です。此の二つの言葉を日本国民への花むけとしてお贈りいたしまして私のお詫びとお別れの言葉と致します。桜の愛、富士山の至誠、日本よ覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫びを聞け。
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遺文
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叡山大師伝 - 平安時代の高僧、最澄の事績を記したもの。最澄が東国へ布教の旅に出て、神坂峠越えの難儀をされた様子を弟子仁忠が書いたものと伝わる。 叡山大師伝抜粋漢文 - 弘仁八年秋八月(中略)大師東征之日、越信濃坂、其坂数十里也、躡雲跨漢、排霧策錫、馬蹀喰風、人吟吐氣、猶尚不能一日行程、唯宿半山、纔達聚落、大師見此坂艱難、往還無宿、誓置広済、広拯両院、陟黜有便、公私無損、美濃境内名広済、信濃境内名広拯也、東土事了、旋踵向都(下略) 上記訓読文- 弘仁八年秋八月大師東征の日信濃坂を越える。この坂数十里なり。雲をふみ、そらに跨り、霧をはらって錫をつくに、馬はあがきて風をくらい、人はうめきて氣を吐き、尚一日の工程にあたわず。ただ半山に宿してわずかに聚落に達す。大師この坂のかんなんにして、往還に宿無きを見て、誓って広済、広拯の両院を置き登り下りに便あらしめ、公私の損ずる事無からしむ。美濃の境内を広済と名ずけ、信濃の境内を広拯と名ずくるなり。東土の事おわりて、くびすをめぐらし都に向かう。
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