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い‐ぶん〔ヰ‐〕【遺文】

読み方:いぶん

故人生前書き残した文章

過去文献現存しているもの。「平安—」


遺文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)

日蓮」の記事における「遺文」の解説

日蓮大量書簡自筆して弟子信徒たちに発送し日興日目日常日頂などの信徒弟子達もこれを書写大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作書簡断片600点を越える。 守護国家論(しゅごこっかろん)1259年 災難興起由来さいなんこうきゆらい)1260年 災難対治抄(さいなんたいじしょう1260年 立正安国論りっしょうあんこくろん1260年謗法抄(けんほうぼうしょう)1262年 法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)1272年 八宗違目抄、1272年 開目抄かいもくしょう1272年 真言諸宗違目抄、1272年 祈祷抄(きとうしょう)1272年 如来滅後五五百歳観心本尊抄にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんほんぞんしょう)1273年 顕仏未来記けんぶつみらいき1273年 小乗大乗分別抄、1273年 木絵二像開眼事、1273年 法華取要抄(ほっけしゅようしょう)1274年 神王御書1275年 種種振舞御書1275年 撰時抄(せんじしょう1275年 報恩抄ほうおんしょう)1276年 四信五品抄(ししんごほんしょう1277年 諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)1280年 三大秘法禀承事(さんだいひほうほんしょうじさんだいひほうぼんじょうのこと)1282年(但し、真偽両説あり) 唱法題目抄(しょうほっけだいもくしょう) 本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう) 兄弟抄 下山御消息しもやまごしょうそく) 他四百余篇。

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遺文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:45 UTC 版)

野田毅 (陸軍軍人)」の記事における「遺文」の解説

1947年12月28日死刑宣告後) 一 日本国民に告ぐ私は嘗て新聞紙上に向井敏明百人競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申上げ面目ありませんが冗談話をして虚報武勇伝以って世の中をお髄がし申し上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受致します。只、今般中国裁判に於いて俘虜住民虐殺し南京屠殺に関係ありと判定されましたことに就いては私は断乎無実を叫ぶものであります。再言します。私は南京において百人斬の屠殺をやったことはありません。此の日本国民はどうか私を信じて頂きます。たとい私は死刑執行されてもかまいません微々たる野田毅生命一個位い日本にとっては問題でありません然し問題一つ残ります日本国民胸中怨みを残すことです。それは断じていけません。私の死を以って今後中日間に怨みアダや仇を絶対に止めて頂きたいのです。東洋隣国お互いに血を以って血を洗うが様なばかげたことのいけないことは常識以ってしても解ります今後恩讐越えて誠心以って中国手を取り東洋平和否世界平和邁進して頂きたいのです。中国人人間であり東洋人です。我々日本人至誠以ってするなら中国人にも解らない筈はありません。至誠神に通ずと申します。同じ東洋人たる日本人の血の叫びは必ず通じます西郷さんは『敬天愛人』と申しました何卒中国愛して頂きます。愛と至誠には国境はありません。中国より死刑宣告された私自身身を捨てて中国提携となり東洋平和の人柱となり、何等中国に対して恨み抱かない云う大愛の心境達し得た事を以って日本国民之を諒とせられ、私の死を意義あらしめる様にして頂きたいのです。猜疑あるところに必ず戦争誘発致します。幸い日本武器捨てました武器は平和の道具でなかった事は日本敗戦以って神が教示されたのです。日本世界平和大道を進まんとするなら武器による戦争以外の道を自ら発見し求めねばなりません。此れこそ今後日本残され重大な課題であります。それは何でしょうか根本精神は『愛』と『至誠』です。此の二つ言葉日本国民への花むけとしてお贈りいたしまして私のお詫びお別れ言葉致しますの愛、富士山至誠日本覚醒せよ。さらば日本国民よ。日本男児の血の叫び聞け

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遺文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 23:53 UTC 版)

信濃比叡広拯院」の記事における「遺文」の解説

叡山大師伝 - 平安時代高僧最澄事績記したもの。最澄東国布教の旅出て神坂峠越え難儀をされた様子弟子仁忠が書いたものと伝わる。 叡山大師伝抜粋漢文 - 弘仁八年八月中略大師東征之日、越信濃坂、其坂数十里也、躡跨漢、排策錫、馬蹀喰風、人吟吐氣、猶尚不能一日行程、唯宿半山、纔達聚落大師見此坂艱難往還無宿、誓置広済、広拯両院、陟黜有便、公私無損、美濃境内名広済、信濃境内名広拯也、東土事了、旋踵向都(下略上記訓読文- 弘仁八年八月大師東征の日信濃坂を越える。この坂数十里なり。をふみ、そらに跨り、はらって錫をつくに、馬はあがきて風をくらい、人はうめきて氣を吐き、尚一日工程あたわず。ただ半山宿してわずかに聚落達す大師この坂のかんなんにして、往還に宿無き見て誓って広済、広拯の両院を置き登り下りに便あらしめ、公私損ずる事無からしむ。美濃境内を広済と名ずけ、信濃境内を広拯と名ずくるなり。東土の事おわりて、くびすをめぐらし都に向かう。

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