りっしょうあんこくろん〔リツシヤウアンコクロン〕【立正安国論】
立正安国論
読み方:リッショウアンコクロン(risshouankokuron)
立正安国論〈日蓮筆/〉
主名称: | 立正安国論〈日蓮筆/〉 |
指定番号: | 63 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1952.03.29(昭和27.03.29) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 文永六年十二月八日書写奥書 |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | 1269 |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
立正安国論〈本阿弥光悦筆/〉
立正安国論
立正安国論
立正安国論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)
詳細は「立正安国論」を参照 日蓮が文応元年(1260年)7月16日に得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論である。日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。 その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。 しかし、時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。 日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。
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