安東氏からの独立と蝦夷支配の確立とは? わかりやすく解説

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安東氏からの独立と蝦夷支配の確立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:15 UTC 版)

松前慶広」の記事における「安東氏からの独立と蝦夷支配の確立」の解説

出羽国比内郡浅利氏解体など宗家安東家(愛季)の勢力拡大協力し安東家中での発言力確保した天正18年1590年)に豊臣秀吉小田原征伐終え奥州仕置始めると、主家安東実季の上洛に蝦夷地代官として帯同した。慶広は前田利家らに取りいって、同年12月1591年1月)、秀吉謁見を果たすと、所領安堵同時に従五位下民部大輔任官された。これにより名実共に蝦夷管領流れを汲む安東氏からの独立果たしたとみられている。慶広は天正18年9月1590年10月)に津軽海峡渡り同年末(西暦では翌年初め)に上洛している。 天正19年1591年)、南部地方九戸政実の乱起きると、豊臣秀吉の命により国侍として討伐軍へ参加した『三河後風土記』には、アイヌ用いた毒矢大変な威力であることが記されている。 文禄2年1593年1月肥前国名護屋城で兵を率いて朝鮮出兵前の秀吉謁見した。秀吉は「狄の千島屋形」が遠路はるばる陣してきたことは朝鮮征伐成功兆しであると喜び従四位下・右近衛権少将任じようとするが、慶広はこれを辞退した。慶広は代わりに蝦夷での徴税認め朱印状求め秀吉はこれを認めと共に志摩守に任じた。慶広は朱印状領民に示すと共にアイヌ集めてアイヌ語翻訳し自分の命に背くと秀吉10万の兵で征伐に来ると伝え、全蝦夷地樺太北海道)の支配確立した

※この「安東氏からの独立と蝦夷支配の確立」の解説は、「松前慶広」の解説の一部です。
「安東氏からの独立と蝦夷支配の確立」を含む「松前慶広」の記事については、「松前慶広」の概要を参照ください。

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