安東氏からの独立と蝦夷支配の確立
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「松前慶広」の記事における「安東氏からの独立と蝦夷支配の確立」の解説
出羽国比内郡の浅利氏解体など宗家・安東家(愛季)の勢力拡大に協力し安東家中での発言力を確保した。天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐を終え奥州仕置を始めると、主家・安東実季の上洛に蝦夷地代官として帯同した。慶広は前田利家らに取りいって、同年12月 (1591年1月)、秀吉に謁見を果たすと、所領を安堵と同時に従五位下・民部大輔に任官された。これにより名実共に蝦夷管領の流れを汲む安東氏からの独立を果たしたとみられている。慶広は天正18年9月(1590年10月)に津軽海峡を渡り、同年末(西暦では翌年初め)に上洛している。 天正19年(1591年)、南部地方で九戸政実の乱が起きると、豊臣秀吉の命により国侍として討伐軍へ参加した。『三河後風土記』には、アイヌが用いた毒矢が大変な威力であることが記されている。 文禄2年(1593年)1月に肥前国名護屋城で兵を率いて朝鮮出兵前の秀吉に謁見した。秀吉は「狄の千島の屋形」が遠路はるばる参陣してきたことは朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、従四位下・右近衛権少将に任じようとするが、慶広はこれを辞退した。慶広は代わりに蝦夷での徴税を認める朱印状を求め、秀吉はこれを認めると共に志摩守に任じた。慶広は朱印状を領民に示すと共に、アイヌを集めてアイヌ語に翻訳し、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝え、全蝦夷地(樺太、北海道)の支配を確立した。
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