山丹交易
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山丹交易(さんたんこうえき)とは、江戸時代に山丹人(山旦・山靼とも書く。主にウリチ族や大陸ニヴフなど黒竜江(露名:アムール川)下流の民族)と樺太アイヌの間で行われた交易のこと。アイヌが交易で入手した山丹錦などは、北海道アイヌを通じて松前藩にも流入した[1]。
注釈
参照
- ^ コトバンク
- ^ a b 佐々木 「松前と山丹交易-大陸との経済文化交流における松前藩の役割について-」
- ^ 佐々木 「松前と山丹交易-大陸との経済文化交流における松前藩の役割について-」。原出典は(末松保和『近世に於ける北方問題の進展』至文堂〈國史研究叢書 第6編〉、1928年。doi:10.11501/1224047。 NCID BN05996003。全国書誌番号:46088142 。)
- ^ 菊池『アイヌ民族と日本人』(1994)p.162。原出典は最上徳内著『蝦夷草紙』後編
- ^ 樺太詰松田伝十郎の山丹交易改革 稚内市
- ^ 池添博彦、北蝦夷地紀行の食文化考 北夷談について 『帯広大谷短期大学紀要』 1995年 32巻 p.33-48, doi:10.20682/oojc.32.0_33
- ^ 菊池「蝦夷地の探検と開発」(1993)pp.784-785
- ^ 西見 「『北夷分界餘話』『東韃地方紀行』解説」
山丹交易
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間宮林蔵が記録した山丹人の自称「マンゴー」とウリチの呼称の一つ「マングン」が一致すること(正確な形は「マングーニ(Manguni,アムール川の人々の意)」と推定されている)、山丹人の居住地が概ね現代のウリチの居住地域と一致することなどから、ウリチは日本語史料に登場する山丹人であると推定されている。 一方、清朝の史料ではアムール川最下流の集団をフィヤカ(ニヴフに比定)、その上流の集団をヘジェ(ナナイに比定)と呼んでおりウリチ(山丹人)にあたる集団が存在しない。しかし、清朝における「ヘジェフィヤカ」(満洲語: ᡥᡝᠵᡝᡶ᠋ᡳ᠍ᠶᠠᡴᠠ, heje fiyaka)はアムール川下流域一帯の住民の代名詞という意味合いが強く、ウリチ(山丹人)はヘジェとフィヤカ両方にまたがる形で居住していたと考えられる。 清朝の辺民制度に入ったアムール川下流域の氏族の内、キジン姓、ハルグン姓、ウディル姓、ロンキル姓などは現代のウリチにあたる氏族であったと推定されている。また、トゥメリル姓、ガキラ姓、チャイセラ姓、ブルガル姓などはナナイとウリチの境界地帯に居住しており、一概に帰属を決めるのが難しい両者の中間氏族と考えられる。
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