貿易の管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:48 UTC 版)
戦国時代から江戸初期にかけて、国内各地で大量に金と銀(特に銀)を産出していたため、交易においてもその潤沢な金銀を用いた。他方、江戸初期においては特に輸出するものもなく圧倒的に輸入超過であり、徐々に金銀が流出していった。このため、幕府は1604年に糸割符制度を設けて絹の価格コントロールを試みた。17世紀も後半になると金銀の産出量が減り、このため1685年には貿易量を制限するための定高貿易法が定められ管理貿易に移行した。また現代的視点では、長崎の出島・堺を始めとした有力港湾を徳川幕府の直轄領(天領)、若しくは親藩・譜代大名領に組み入れることによって、徳川幕府による管理貿易を行い収益を独占した、という研究がある[要出典]。しかし、幕府は藩の直接的な貿易を禁止したが、幕府自身も直接的な貿易を行っているわけではなく、また「鎖国」成立当初において幕府が長崎貿易から利潤を得ていたわけでもない。貿易の管理・統制については、貿易都市長崎および商人を通して間接的に行っていた。山丹交易は、当初、松前藩が自藩領内の蝦夷(アイヌ)を介し、樺太や宗谷に来航する山丹人と取引した。これは、間接的には大陸にある清の出先機関・デレンとの貿易であった。山丹交易は松前藩の収入の一角を占めていたが、1807年(文化4年)の第一次幕領期以降、蝦夷地(北海道・樺太・北方領土・得撫郡域)は公議御料となり、交易は幕府(箱館奉行)直営とし、交易地も白主会所に限定された。また、18世紀の中頃から、北樺太の近くに住む樺太アイヌの一部には、幕藩体制の役職を持ったまま間宮海峡を超えて大陸・デレンとの貿易を行う者もいたが、幕吏・松田伝十郎の改革以降大陸渡航は禁じられた。この改革で、山丹人は直接江戸幕府に朝貢するようになった。
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