江戸幕府の成立と200年の平和
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「日本の軍事史」の記事における「江戸幕府の成立と200年の平和」の解説
秀吉の死後、再び内紛が勃発し、1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、1603年に江戸幕府を開き、1615年の大坂の陣での勝利で豊臣氏を滅ぼした。応仁の乱以降150年もの間断続的に続いた大規模な戦乱は、これで終了した(元和偃武)。その直後に一国一城令が出され、国内に3,000近くもあったといわれる城郭が約170まで激減し、各大名は幕藩体制の下で統制されることになった。三代将軍徳川家光までの治世は武断政治とも言われ、江戸幕府の基盤を固める為の時期であり、幕府に逆らう大名、或いは武家諸法度の法令に違反する大名は親藩、譜代大名、外様大名の区別なく容赦なく改易、減封の処置を行った。家光の死後は文治政治へと転換し、1637年に島原の乱が発生した後は、200年以上戦乱が起きることはなかった。また家光の代にいわゆる『鎖国』が始まり、1635年には、九州地方の大名の朱印船貿易への関与が禁止され、貿易の実務は、長崎の有力な商人と、長崎に集住された中国人オランダ人の間の民間貿易で実施されることになり、長崎奉行は貿易の管理と統制に専念するようになった。 家光はオランダから臼砲を輸入したり、中国大陸で清と戦う明への援軍を検討するなど軍事面にも関心を持っていたが、家光の死後は幕府の軍事面への関心は急速に薄れていった。幕府の軍事組織としては五番方(小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)があったが、次第に形骸化していった。
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