江戸幕府の大番とは? わかりやすく解説

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江戸幕府の大番

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 02:03 UTC 版)

大番」の記事における「江戸幕府の大番」の解説

常備兵としての大番は、同様の組織である五番方小姓組書院番新番大番小十人組)の中で最も古く石川数正出奔した翌年天正14年1586年)頃に徳川家康徳川家軍制変更した際に編制されたと考えられている。文禄元年1592年)には江戸城改築にともない当時あった6組屋敷地江戸城北西側設けている(千代田区には一番町から六番町町名が現在も残る)。開幕前の大番松平一族家康縁類番頭に就く事が多く、この当時は後の両番のような親衛隊側面有していた。 大番当初6組その後増強幕府制度整備にともない本丸老中支配として12組となる。徳川秀忠将軍就任し書院番小姓組創設当初花畑番)が新たに創設される親衛隊側面はそちらに移行し大番老中支配として幕府直轄軍事力となってゆく。そのため、将軍大御所世子親衛隊ではない大番西の丸置かれる事はない。ただし慶長初期、まだ書院番等が無い頃に家康秀忠間で大番分割され家康には松平康安組・水野重央組・松平重勝組が、秀忠には渡部茂組・菅沼定吉組・水野義忠組が配属され関ヶ原の戦いでもこの状態で各組が従軍した1つの組は番頭1名、組頭4名、番士50名、与力10名、同心20名で構成される番頭役高5,000石の菊間席で、しばしば大名就任した開幕初期はその傾向が特に強い)。組頭役高600石の躑躅間席、番士持ち高勤め足高の制による補填がない)であるがだいたい200石高馬上資格を持つ旗本就任した役高規定される番士軍役から計算した兵力400人強となり、2万程度大名軍役匹敵した(『岩淵夜話』によると5万石に比例するとしている)。 職務は、平時には江戸城および幕府要地警護担当し戦時には旗本先手備を担った江戸城警備当初本丸御殿虎の間に詰めていたが、寛永20年1643年)に新番創設による警備場所の玉突き移動により、大番江戸城警備外される。これにより番士士気低下生じたため番頭警備任務への再配置求め、これに応じて当時空屋敷だった西ノ丸御殿警備命じられ以降大御所世子不在時の西ノ丸二ノ丸御殿警備担当する(特に二の丸警備多かった)。また廻り番として江戸市中巡回警備行った一方大番警護する要地二条城および大坂城があり、それぞれに2組1年交代在番する。江戸時代初期にはこのほかに伏見城駿府城警護当たっていたが、伏見在番伏見廃城により、駿府在番書院番務めることになり、それぞれ廃止された。 また、番士全体のなかから出役として、数名御蔵奉行を、1名が書替奉行切米手形改)を務めた大番歴史が古いものの、「両番」と称せられる小姓組書院番比べ家格一段いとされ番士たちの出世の途は限られていた。

※この「江戸幕府の大番」の解説は、「大番」の解説の一部です。
「江戸幕府の大番」を含む「大番」の記事については、「大番」の概要を参照ください。

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