江戸幕府の倒壊と長崎奉行の逃走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 19:15 UTC 版)
「長崎聞役」の記事における「江戸幕府の倒壊と長崎奉行の逃走」の解説
慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたとの報が長崎にもたらされた。それを知った長崎奉行・河津伊豆守祐邦は1月14日夜、イギリス船にひそかに乗り込み、翌早朝には江戸に脱出してしまった。 河津伊豆守は脱出の際に後事を福岡藩の聞役・粟田貢に託しており、それを受けて粟田は長崎地役人の薬師寺久左衛門、岡田吉大夫、本木昌造、尾上栄文らと協議。当時長崎にいた各藩士と共に、新政府より沙汰があるか責任者が派遣されるまでは、これまで通りに諸事を取り図ると申し合わせた。 これにより、薩摩藩・長州藩・土佐藩・広島藩・大村藩・宇和島藩・対馬藩・加賀藩・柳川藩・越前藩・肥後熊本藩・福岡藩・平戸藩・五嶋藩・島原藩・小倉藩の16藩の合議による協議体が発足。この協議体は連名の誓約書を作っており、その連名者の中には土佐の佐々木高行や佐賀の大隈重信、薩摩の松方正義の名もある。長崎奉行所西役所は長崎会議所と称され、2月15日に澤宣嘉が九州鎮撫総督兼外務事務総督に就任するまで、長崎の政務を執ることになった。また、治安維持には各藩兵や長崎奉行が結成した振遠隊が当たることとなった。
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