江戸幕府による改易の申し渡しへの配慮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 08:47 UTC 版)
「改易」の記事における「江戸幕府による改易の申し渡しへの配慮」の解説
改易は領主と家臣、居城、領国などの解体を伴い大名の無力化を意味する。このため一つ間違えば反乱の原因となるため、江戸幕府側も周到な準備や配慮を行っている。 1619年(元和5年)に安芸・備後50万石の外様大名福島正則の改易では、将軍秀忠の上洛のために正則が江戸に留め置かれた状態で改易が言い渡された。 1622年(元和8年)10月の宇都宮15.5万石の譜代大名本多正純の改易は、上使として山形城に派遣されている折りに正純に言い渡された。 1632年(寛永9年)の肥後52万石の外様大名加藤忠広の改易では、幕府によって江戸に召喚されていた忠広が品川宿に逗留中の5月22日に足止めされて江戸に入れず、そのまま池上本門寺に幽閉され、24日には加藤氏の改易が将軍家光から伊達政宗他5人の外様大名に伝達、また家光は加藤氏と親戚筋に当たる徳川頼宣(夫人が忠広姉)と事前の相談を行い、一般には6月1日に改易が公表された。 これらの3例は居城と家臣団から改易大名を切り離した状態を狙ったり、またそのような状況を意図的に作ったうえで処分を言い渡している。これは改易を契機とする抗戦を予防するためであり、江戸幕府は反乱の芽を摘みとるために細心の注意を払って改易を行った。
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