江戸幕府と清王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 12:33 UTC 版)
前述のとおり、徳川家康から徳川秀忠の時代にかけては、江戸幕府は明との国交回復及び勘合貿易の再開をもくろんだ。しかし、倭寇や文禄・慶長の役の経緯から日本に警戒心を持つ明に断られ失敗した。徳川家光が3代将軍に就任する頃になると幕藩体制が整うと、江戸幕府は日本を中心とした華夷秩序の編成をもくろみ、海禁(「鎖国」)政策を確立していく。1633年、幕府は長崎奉行に対して、老中が発行する奉書を持つ船以外の海外渡航や帰国を禁止する第一次鎖国令を発令し、1635年にはすべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国を禁止する第三次鎖国令が発令されて朱印船貿易は終末を迎えた。1641年にオランダの商館を平戸から出島に移転させることによって、江戸幕府は「鎖国」を完成させた。 一方中国東北部では、1616年にツングース系の女真族が後金を打建て、1636年には清と国号を改め、李氏朝鮮を服属、自らを満州族と称した。1644年に明を滅ぼし、中国全土を支配下に置いた。その後も明の残党勢力らによる反乱が続いたが、台湾に逃れて抵抗していた鄭成功一族も1683年に滅ぼして台湾を領有することに成功、清は康熙帝・雍正帝・乾隆帝と最盛期を迎える。しかしマテオ・リッチらによるキリスト教伝授などの影響を受けて、1796年から白蓮教徒の乱が起きるとそれを鎮圧するのは漢民族によって組織された郷勇であった。この頃から清は衰退傾向にあったと言える。 「鎖国」政策の中で、オランダ・李氏朝鮮・琉球・蝦夷地と共に交流を続けた清は出島・対馬・琉球・松前を通した定高貿易を行った。江戸幕府は4代将軍家綱の頃から文治政治への転換を図り、1630年に輸入が禁止されたキリスト教関係の書籍を除いて多くの漢籍が輸入された。儒学を研究する木下順庵ら儒学者は待遇を受け、1690年に林羅山は上野にあった孔子廟を湯島聖堂として新設し直したりして朱子学も発展した。大陸の考証学に先立って伊藤仁斎・荻生徂徠らによる古学が興ったり、国学者の本居宣長が「からごころ」に代わって「やまとごころ」を主張したりした。しかし、19世紀に入るとロシア帝国の外交官が通商を求めてきたり、大英帝国・アメリカ合衆国の軍艦が長崎港に侵入したりするようになって、米露の江戸幕府に対する開国要求が強まっていく。
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