江戸幕府と摂家
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江戸幕府が成立すると、幕府は禁中並公家諸法度を制定して、摂政・関白は幕府の推薦なくして任命できない仕組みとなった[要出典]。 摂家の昇進は他の公家とは別格とされていた。すなわち、7歳前後で元服を行い、正五位下もしくは従五位上に叙任されて近衛権少将を初任官とし、近衛権中将 → (参議を経ず) 権中納言 → 権大納言兼近衛大将から大臣を経ることとなっており、この間三位までは越階による叙任が、官職においては摂家の任命が優先されて権中納言・権大納言・大臣の定員がない場合には清華家以下の公家から1名を更迭してその後任とした。 禁中並公家諸法度では宮中席次は摂関・三公・宮家・その他公卿となっていたが、前述のように摂家が三公就任の優先的地位を有していたため、結果的に清華家以下はもちろんのこと皇族である宮家より人臣である摂家の上座がほぼ保障されていた。さらに官位勅問は原則として摂家のみが承り、かつ日参義務のない現職摂関以外の4家に対しては天皇の方から参内を求めることなく反対に摂家の私邸に勅使を派遣すること、さらには清華家以下の特定の公家を「家礼・門流」と称して半ば家臣扱いすることなど、多くの待遇が認められていた。 摂家がその貴種性を維持するために、自家に相続人がいなければ自家と同格である摂家もしくは皇族から養子を迎えて後を継がせることになっており、たとえ摂家との血縁上のつながりが明らかであっても、清華家以下の下位の家格出身者が摂家を相続することは許されなかった。寛保3年(1743年)、九条稙基と鷹司基輝が急死した際に、九条家は随心院門跡である尭厳(後の九条尚実)が還俗して相続し、鷹司家は同家から養子に入った西園寺実輔の孫・寿季(後の橋本実理)の相続を検討するよう、桜町天皇が命じた。これに対して関白一条兼香が閑院流に摂関が移ってしまうことを危惧して反対したために、東山天皇の第6王子で閑院宮家の始祖である直仁親王の第4王子・淳宮(後の鷹司輔平)が相続した。 天皇の正式な配偶者と呼ぶべき中宮・皇后は皇族および将軍家を例外とすれば摂家のみから出され、天皇との婚姻関係においても優位に立った。仮に摂家以外の女性が次期天皇を生んだとしても中宮・皇后の実子とされ、産んだ女性は母親とは認められない場合もあった(たとえば、明治天皇を産んだのは中山慶子であるが、実の母親とされたのは孝明天皇の准后であった九条夙子〈のちの英照皇太后〉であった)。 経済的にも慶長期の知行目録によれば、近衛家1795石、二条家1708石、九条家1043石、一条家1029石、鷹司家1000石であったことが確認できる。その後、天保期には九条家3000石、近衛家2860石、一条家2044石、二条家1708石、鷹司家1500石であったのが、慶応元年の段階で近衛家2862.8石、九条・一条両家が2044石、二条家1708.8石、鷹司家は1500石の家領・家禄が与えられ、他の堂上家よりも経済的に厚遇を受けていた(なお、100石以下の堂上家は羽林家で15、名家10、半家7であった)。さらに摂政・関白に就任中は幕府より別途、役職料として毎年500石が支給されていた。その他にも、五摂家は大藩との縁組も多く、摂家息女が嫁した大名家からの援助金も多額であり、経済的には摂家は清華家以下の公家よりかなり恵まれた環境であった。
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