江戸幕府の「異国船打ち払い令」と『新論』の広まり
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江戸時代末期の1824年(文政7年)に常陸国水戸藩で外国人上陸事件・大津浜事件が起きた。江戸幕府代官・古山善吉、蘭学者の通訳・吉雄忠次郎、天文方・高橋作左衛門らと共に、薪や水を求めて上陸したイギリス捕鯨長・ジョンギブソンらの対応にあたった哲学者(思想家、水戸学者)の水戸藩士・会沢正志斎(会沢安)は、数十年にわたる彼の西洋史研究や、周辺諸国の殆どが欧米列強に植民地化されてきている国際認識から「イギリス人は通商(自由貿易)が目的だと語り、いたるところで友好的に近づいているが、国の強弱を確かめると、弱い国には兵力で攻め込み、強い国にはキリスト教で民衆をたぶらかして国を奪っている」「キリスト教圏の西洋諸国に対抗し、日本を強国にするべきだ」との危機感を深めた。翌1825年(文政8年)2月、江戸時代を通じ出島に限定した保護貿易政策をとってきた江戸幕府は、オランダ・清・朝鮮王国の船や明らかな遭難船を除いて、陸に近づく正体不明の外国船へ沿岸警備の役人から発砲するよう命じる異国船打払令(無二念打払令)を発布し、これまで大津浜事件と同じよう、上陸した外国人へ丁寧に退去を求めながら、どの外国船にも食料と水などを供給する微温的国防政策から転換することになった。同年、会沢は日本再興のための国事改革マニフェスト『新論』を著すと、「欧米列強の力の源である国民の精神的統一と国家への忠誠をうみだしているのはキリスト教による一般民衆の教化である」と分析した上で「日本でも、臣下から君主への「忠」(君臣の忠)と親子における「孝」(親子の孝)のパラレルな関係のもとに、これら忠孝道徳をうみだす源泉である太陽の女神・アマテラスこと天皇家の始祖を祭ると共に、この始祖を広く日本国民共通の始祖と捉え直し、今はまだ令制国連邦として各大名らの高度自治のなかで分裂・対立・孤立している国内諸藩民を「国体」(国家の本体)によってまとめ、早急に全国の国防を基礎づけなければならない」と論じた。会沢は250年の天下泰平になずんだ江戸の平和のもとで、単に武士道精神の復興、農兵の導入、沿岸警備隊や火薬廠の建設、参勤交代費を節減して雄藩を強化する事など具体的な国事改革論を提出するだけでなく、近代日本を造る「国家」の単位を、改めて定義した「国体」概念ではじめて提出したのである。この書は会沢から第8代水戸藩主・徳川斉脩(おくり名・哀公(あいこう))へ献上されたが、哀公は同書を一読後、幕府への献上を認めなかった。また哀公は同書の出版時にも匿名とするよう会沢へ警告した。この書は既存の幕藩体制の秩序を強化する幕政改革論で、決して倒幕や王政復古への展望をもつものではなかった。しかしすぐそこに列強からの植民地化が迫る危機感を「尊王攘夷」の精神として全国へ啓蒙する強烈な檄文でもあったため、既存の幕藩体制をおおかれすくなかれ批判する側面がある以上、現政体を飽くまで維持しようとする保守主義の立場からはいささか進歩主義的にすぎるとみられる内容でもあった。その後、30年間『新論』は出版されなかった。しかし会沢の弟子や同僚らが密かに筆写し世に出回ると、国内知識人のネットワークを通じて同書を読み、感動した諸国の志士らが会沢らに学ぶため常陸国水戸(会沢らの暮らしていた現茨城県水戸市の城下町)を訪れるようになった。佐賀藩士・大隈重信『大隈伯昔日譚』によると、「勤皇の大義」を説く水戸学派の学説は大隈はじめ同藩士・江藤新平や大木喬任らから輸入され、そのうち、会沢の『新論』は「佐賀藩の一部の侍や庶民が最も貴重とするところとなっていた」という。
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