江戸幕府の場合
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江戸時代、幕府の代官は郡代と共に勘定奉行の支配下におかれ小禄の旗本の知行地と天領を治めていた。初期の代官職は世襲であることが多く、在地の小豪族・地侍も選ばれ、幕臣に取り込まれていった。代官の中で有名な人物として、韮山代官所の江川太郎左衛門や富士川治水の代官古郡孫大夫三代、松崎代官所の宮川智之助佐衛門、天草代官鈴木重成などがいる。寛永(1624年-1644年)期以降は、吏僚的代官が増え、任期は不定ではあるが数年で交替することが多くなった。概ね代官所の支配地は、他の大名の支配地よりも暮らしやすかったという(なお、駿府町奉行・佐渡奉行などとは役割が違うので注意が必要である)。 代官の身分は150俵と旗本としては最下層に属するが、身分の割には支配地域、権限が大きかった。後述の通り代官所に勤務する人員の数は限られていたため、代官の仕事は非常に多忙だった。 通常、代官支配地は数万石位を単位に編成される。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(幕府の御家人)と数名の手代(現地採用の抱え席)が置かれ、代官を補佐した。特に関東近辺の代官は江戸定府で、支配は手付と連絡を取り行い、代官は検地、検見、巡察、重大事件発生時にのみ支配地に赴いた。遠隔地では代官の在地が原則であった。 また私利私欲に走るなどで、少しでも評判の悪い代官はすぐに罷免される政治体制になっていた。過酷な年貢の取り立ては農民の逃散につながり、かえって年貢の収量が減少するためである。実際、飢饉の時に餓死者を出した責任で罷免・処罰された代官もいる[要出典]。しかしながら、その一方では、領民たちを重い税から救うために自らの命を犠牲にして年貢の減免を幕府に訴え続けた鈴木重成や、同じく支配地への甘藷の導入によって領民たちを飢饉から救った井戸正明などを始め、名代官と呼ぶにふさわしい代官も存在した。
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江戸幕府の場合
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大奥#構造も参照。須原屋版武鑑では蓮浄院様用人と広敷番頭との間に掲載され、布衣・500石高とあり、在職者3名が見える。なお、姫様方用人とは別に存在した。
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江戸幕府の場合
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江戸幕府における徒歩組(かちぐみ)は、徳川家康が慶長8年(1603年)に9組をもって成立した。以後、人員・組数を増やし、幕府安定期には20組が徒歩頭(徒頭とも。若年寄管轄)の下にあり、各組毎に2人の組頭(徒組頭とも)が、その下に各組28人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は70俵5人扶持。礼服は熨斗目・白帷子、平服は黒縮緬の羽織・無紋の袴。家格は当初抱席(かかえぜき)だったが、文久2年(1862年)に譜代となった。
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江戸幕府の場合
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江戸幕府においては、芙蓉の間席で従五位下に叙せられる諸大夫役。別名は、御普請奉行。ここでいう普請は、仏教用語で「ひろく大衆に労役に従事してもらう」という意味である。 お城の石垣普請や縄張り、地取などの土木関係の諸業務や上水の管理を司る役割。定員は概ね2名程度。老中支配で、役高は2000石。寛文6年(1666年)に役料500俵となったが、天和2年(1682年)にこれは廃止になった。下に普請下奉行、改役、普請方などの役があった。 作事奉行、小普請奉行とあわせ下三奉行(しもさんぶぎょう)といった。
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