代官支配地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:51 UTC 版)
長崎には、地租を免除された内町と、それ以外の外町があった。内町は、天正16年(1588年)秀吉によってイエズス会より収公され、直轄領となった10町で、後に増加して23町となった。外町は、慶長2年(1597年)に造成された材木町に始まり、寛永19年(1642年)までに市街化した地域で、後に43町となった。寛文12年(1672年)には人口の多い幾つかの町が分割され、内町26町・外町54町の計80町となった。 長崎代官は当初、内町とそれに付随する茂木や浦上などを支配し、徴税や行政を執り行った。しかし、内町が長崎奉行の支配となると、外町年行司(後に外町常行司と改称)2人の補佐のもと、大村藩から上知した外町や長崎村、浦上村などを支配した。 慶安元年(1648年)、末次平蔵3代目の茂房の時には野母村・高浜村・川原村の3村が、寛文9年(1669年)には茂木村、樺島村、日見村、古賀村の4村が長崎代官支配となった。 元禄12年(1699年)に内町と外町の区別が廃止され、長崎80町は長崎奉行の支配となった。それに伴い長崎代官は、長崎村以下の郷3ヵ村(長崎村、浦上山里村、浦上淵村。計約4400石)と、長崎周辺の7ヵ村(茂木村、野母村、高浜村、川原村、樺島村、日見村、古賀村。計3000石)を支配することとなった。 肥前国高来郡・彼杵郡の天領7ヵ村が管轄地になったのは明和5年(1768年)のことで、寛政11年(1799年)に松浦郡内に1万石、文化7年(1810年)には更に1万石、同9年(1812年)には肥後国天草郡に2万3千石、同13年(1816年)には日向に7千石の所管地を与えられた。幕末の13代作右衛門忠知は、計16万石を管轄することになった。
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