浦上山里村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 20:05 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| うらかみやまざとむら 浦上山里村  | 
   |
|---|---|
| 廃止日 | 1920年10月1日 | 
| 廃止理由 |  編入合併 上長崎村、浦上山里村 → 長崎市  | 
   
| 現在の自治体 | 長崎市 | 
| 廃止時点のデータ | |
| 国 |   | 
   
| 地方 | 九州地方 | 
| 都道府県 | 長崎県 | 
| 郡 | 西彼杵郡 | 
| 市町村コード | なし(導入前に廃止) | 
| 総人口 |  8,605人 (長崎県大観 大典記念 239頁、1915年)  | 
   
| 隣接自治体 | 長崎市、西彼杵郡福田村、西浦上村、上長崎村 | 
| 浦上山里村役場 | |
| 所在地 | 長崎県西彼杵郡浦上山里村 | 
| 座標 | 北緯32度45分47秒 東経129度51分46秒 / 北緯32.76319度 東経129.86275度座標: 北緯32度45分47秒 東経129度51分46秒 / 北緯32.76319度 東経129.86275度 | 
| ウィキプロジェクト | |
浦上山里村(うらかみやまざとむら)は、長崎県西彼杵郡にあった村。1920年(大正9年)に上長崎村とともに長崎市に編入された。
現在の長崎市中央地区の一部、及び西浦上地区の一部にあたる。
地理
西彼杵半島と野母半島(長崎半島)の基部、浦上川の下流域に位置する[1]。
- 山:金比羅山(琴平山)
 - 河川:浦上川
 
沿革
江戸時代は幕府領の山里掛[2]と淵掛[3]、大村藩領の家野・木場(古場)・滑石・北・西の各村[4]があり、これらを合わせて浦上村と称した[5]。後に浦上山里村となる地域は上記のうち「山里掛」にあたる。
浦上村は明治初期から中期にかけて幾度かの村域変遷を経て、1882年(明治15年)に浦上村より分割された2村のうちの1村として浦上山里村が成立した。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、西彼杵郡浦上山里村が単独村制にて発足。
 - 1897年(明治30年)7月22日 - 九州鉄道長崎線(のち日本国有鉄道長崎本線)が開業し、当村域に長崎駅(のち浦上駅に改称)が設置される。
 - 1898年(明治31年)10月1日 - 以下の村域変更が行われる[6]。
 - 1920年(大正9年)10月1日 - 上長崎村とともに長崎市に編入し、浦上山里村は自治体として消滅。
 
地名
郷を行政区域とする。浦上山里村は1889年の町村制施行時に単独で自治体として発足したため、大字は無し。
- 家野郷(いえの)[9]
 - 里郷 - 1898年、一部を長崎市に編入[6]。
 - 中野郷
 - 馬込郷 - 1898年、一部を長崎市に編入[6]。
 - 本原郷(もとはら)[10]
 - 寺野郷 - 1898年、淵村より編入[6][11]。
 
交通
鉄道
- (西浦上村) - 浦上駅 - (長崎市)
 
名所・旧跡
参考文献
- 角川日本地名大辞典 42 長崎県
 - 長崎縣告示第七百十一號 西彼杵郡上長崎村浦上山里村区域編入 長崎県公報 大正9年9月29日付号外
 - 市域の変遷(長崎市例規集)
 
脚注
- ^ ※位置参考:市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 1919年10月1日
 - ^ 浦上村山里ともいう。
 - ^ 浦上村淵、浦上淵村ともいう。後の淵村大字浦上淵の区域にあたる。
 - ^ 大村藩領の5村は後の西浦上村の区域にあたる。
 - ^ 角川日本地名大辞典 42 長崎県「浦上村」
 - ^ a b c d 長崎縣告示第百二十九號『市村廃置分合の件 [1]・[2]』長崎県公報 明治31年7月22日付
 - ^ 戸町村の残部は小ヶ倉村に編入し、自治体として消滅した。
 - ^ 淵村の残部は小榊村として分立し、自治体として消滅した。
 - ^ 西浦上村にも同表記の郷が存在するが、読みは異なる。
 - ^ 江戸時代は「ほんばる」とも読まれた。
 - ^ 淵村時代は大字浦上淵を冠称。
 - ^ 中野郷に所在。当地は長崎への原爆投下から3年後の1948年(昭和23年)に如己堂が建てられた。
 
関連項目
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