第一発電所
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大淀川水力電気は、1919年に電気化学工業が建設に着手していた大淀川第一発電所(出力1万5,000キロワット)の建設工事を担当した。1923年(大正12年)の関東大震災で芝浦製作所にて製作中の発電機が焼失するトラブルがあり工期が伸び、1925年(大正14年)12月22日になって竣工に至る。宮崎県での工場新設が新潟県の青海工場建設(1921年設置)で余力がなくなり断念されたため、発電所の発生電力は翌1926年(大正15年)1月から大牟田工場へ送電された。 第一発電所の所在地は北諸県郡高崎町(現・都城市、地図)。主要機器としてウェルマン・シーバー・モルガン (Welman Sieber Morgan) 製縦軸フランシス水車3台(出力7,500馬力×3)、芝浦製作所製交流発電機3台(容量6,000キロボルトアンペア×3)、富士電機製変圧器を備えた。 1925年5月、宮崎県において水利権の獲得を競っていた東邦電力・九州水力電気・住友財閥と電気化学工業の4者出資によって共同開発会社九州送電が設立された。電気化学工業では、この九州送電が建設する送電線によって大淀川第一発電所の発生電力を大牟田工場へ託送する予定であったが、県外送電反対運動への対応で会社設立が遅延したことからこれを断念、九州送電の持ち株をすべて九州水力電気へ売却した。その代わりに電気化学工業の側で大淀川第一発電所から熊本県の八代まで66キロボルト送電線を架設、八代から大牟田までは従来から大牟田工場へ電力を供給していた熊本電気へと託送するという形の送電ルートを構築した。
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第一発電所
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第一発電所(油屋町発電所とも)は長崎電灯創業時からの発電所である。当初長崎市外の浦上山里村馬込郷(後の長崎市御船蔵町)にあったが、1896年(明治39年)の増設とともに長崎市高野平(現・高平町)へ移転している。発電所の主要設備は以下の通り。 ボイラー : 計6台 原動機 :米国製85馬力蒸気機関1台 三吉工場製100馬力蒸気機関1台 米国製200馬力蒸気機関1台 英国製500馬力蒸気機関1台 発電機 :24キロボルトアンペア直流発電機1台(英国ブリティッシュ・トムソン・ハウストン製) 35キロボルトアンペア単相交流発電機1台(英国ブリティッシュ・トムソン・ハウストン製、周波数125ヘルツ) 60キロボルトアンペア単相交流発電機1台(三吉工場製、周波数125ヘルツ) 120キロボルトアンペア単相交流発電機1台(米国ゼネラル・エレクトリック製、周波数125ヘルツ) 300キロボルトアンペア単相交流発電機1台(芝浦製作所製、周波数60ヘルツ) 発電所出力 : 539キロワット 1893年4月の開業当初の発電機は直流・交流各1台ずつで出力は59キロワット。以後需要の増加に応じて1896年に60キロワット、1900年に120キロワット、1903年に300キロワットと増設が繰り返され発電機5台・出力計539キロワットの発電所となった。しかし相次いで無計画に増設されたことで種類や周波数など発電機の規格が統一されておらず、総合運転が不可能という問題を抱えていた。このため九州電灯鉄道からの受電が開始されると予備発電所とされ、九州電灯鉄道との合併後の1918年(大正7年)8月に廃止された。
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第一発電所
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詳細は「電灯中央局」を参照 位置:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度10分4.0秒 東経136度53分57.5秒 / 北緯35.167778度 東経136.899306度 / 35.167778; 136.899306 (電灯中央局跡) 名古屋電灯最初の発電所は火力発電所の第一発電所である。愛知電灯を合併して同社の発電所(第二発電所)を引き継ぐまでは社内唯一の電源で、その当時は「電灯中央局」と称した。場所は名古屋市南長島町・入江町(現・中区栄二丁目)で、跡地には中部電力の電気文化会館が建つ。 1889年(明治22年)12月に開業した時点での電灯中央局の設備は、米国製ボイラー3台、米国製蒸気機関2台、ドイツ・AEG製エジソン型直流発電機(出力25kW)4台であり、直流250ボルトにて配電した。開業以来の需要増加に対応するため、1893年(明治26年)2月、京都電灯から譲り受けた設備一式(ボイラー・蒸気機関各1台、三吉工場製25kWエジソン型発電機2台)を増設。さらに翌1894年(明治27年)7月、ボイラー・蒸気機関各1台とAEG製25kW発電機2台を増設し、1895年(明治28年)12月には再び同様の設備を増設している。 こうして第一発電所は最大で出力250kWの発電所となったが、後述の水主町発電所において1904年(明治37年)6月に第2期工事が完成すると発電を休止した。その後は予備発電所として残され、一部が試験室として用いられたが、1911年(明治44年)9月27日に試験室の失火が原因で全焼した。
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第一発電所(廃止)
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宮川電気(伊勢電気鉄道)が1897年(明治30年)6月に開業した際の火力発電所は、中部電力伊勢営業所(伊勢市岩渕1丁目9-24)のある場所に建設された。逓信省の資料では発電所名は「第一発電所」とある。 開業時の設備構成は100馬力のボイラー・蒸気機関1組と50キロワット発電機1台であった。その後翌1898年(明治31年)3月に同規模の設備一式を増設。1903年(明治36年)には電車開業にあわせて76馬力ボイラー・100馬力蒸気機関・70キロワット発電機(直流発電機)各1台からなる電車専用設備を新設している。次いで1910年(明治43年)7月には75キロワット発電機ならびに100キロワット発電機各1台も増設された。 逓信省の資料によると1910年時点での設備は、ボイラー3缶、蒸気機関4台(計470馬力)、50キロワット単相交流発電機2台、75キロワット三相交流発電機1台、100キロワット単相交流発電機1台からなった。1915年(大正4年)になってこのうち75キロワット発電機1台が後述の第二発電所に移設された。第二発電所の完成後は予備発電所となり、1917年(大正6年)4月に廃止された。
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