稼働の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 09:17 UTC 版)
石岡第一発電所の完成後、久原鉱業所が所有していた中里発電所と町屋発電所は茨城電気に返還され、日立鉱山は電源を石岡第一発電所に頼ることとなった。また、日立鉱山では石岡第一発電所の竣工に伴い銅の電解精錬を行う電錬場を稼働させることとなった。電錬場に電気を供給するため電錬場横に芝内変電所(後の日立第三変電所)を設けた。電気は石岡第一発電所から2万7000ボルトの送電線路を経由し、芝内変電所で普通高圧に落とし、これを電錬場に送った。電錬場では回転変流器で交流を直流に変えて使用した。 電錬場を稼働させても石岡第一発電所が生む4,000キロワットの電力全てを消化することは出来なかったので、久原鉱業所は計画通りに化学工業を興すこととした。久原鉱業所は工学士の高尾直三郎に担当させて化学工場の建設に着手した。1912年(大正元年)、芝内の電線工場付近にカーバイト工場が完成して炭化カルシウムの製造が始まった。しかし、日立鉱山が好況のため電力需要が増加し、化学工業は操業から一年も経たずに中止することとなった。 日立鉱山が再び電力不足に陥ったため、久原鉱業所は石岡第一発電所の下流に石岡第二発電所(出力1,000キロワット)を設けることとした。1912年(大正元年)に石岡第二発電所の工事に着手し、同発電所は1913年(大正2年)12月に竣工した。日立鉱山への送電が始まったのは1914年(大正3年)1月からである。これにより当時の日立鉱山の電力需要に見合う供給が行えるようになったとされる。
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