水利権の獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 06:30 UTC 版)
桃山発電所付近にて最初に水利権を獲得したのは関清英を代表とするグループで、その許可は1907年(明治40年)4月にさかのぼる。この水利権は翌1908年(明治41年)3月に名古屋電力(当時木曽川八百津発電所を建設中)へと譲渡され、さらに合併によって1910年(明治43年)10月、明治・大正期における名古屋市の電力会社名古屋電灯に引き継がれた。「駒ヶ根」地点と呼ばれたこの水利権は、木曽川のうち福島町(現・木曽町)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村へ至る区間が引用区間であったが、1910年7月の計画見直しで「駒ヶ根」と「大桑」の2地点に分割された。 水利権の獲得程度に留まっていた木曽川中流部の開発計画が具体化されるのは、後年「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介が名古屋電灯の経営を掌握してからである。「駒ヶ根」地点については、まず1915年(大正4年)10月、使用水量を既許可の500立方尺毎秒(13.81立方メートル毎秒)から800立方尺毎秒(22.26立方メートル毎秒)へと増加する申請を行う。さらに翌1916年(大正5年)6月には引用区間を見直して「駒ヶ根」地点を「大桑第一」地点へと改め、設計変更を出願した。そして1917年(大正6年)11月、使用水量800立方尺毎秒にて「大桑第一」地点の水利権許可を得た。 水利権の許可後、1918年(大正7年)9月に名古屋電灯から開発部門が木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)として独立したため、「大桑第一」地点の水利権も同社へと移されている。さらに1921年(大正10年)2月、木曽電気興業は合併によって大同電力となった。大同電力による実施計画策定の過程で、「大桑第一」地点は水路が長くなりすぎるとして上流の「駒ヶ根」地点と下流の「須原」地点に再分割され、さらに「駒ヶ根」地点については途中に名勝寝覚の床を挟むため上流を「寝覚」地点、下流を「桃山」地点として細分化された。
※この「水利権の獲得」の解説は、「桃山発電所」の解説の一部です。
「水利権の獲得」を含む「桃山発電所」の記事については、「桃山発電所」の概要を参照ください。
水利権の獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 14:08 UTC 版)
賤母発電所は、明治・大正期における名古屋市の電力会社名古屋電灯によって開発が計画された。同社が現在の賤母発電所周辺に水利権を得たのは1908年(明治41年)5月にさかのぼる。この段階では水利権の獲得程度にとどまったが、名古屋電灯に後年「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介が乗り込むと開発計画が具体化され、同時に木曽川の流れを利用して木曽御料林からの木材輸送(「川狩り」と称する)を行っていた帝室林野管理局との交渉も進められた。 1915年(大正4年)10月、名古屋電灯は長野県に対し、使用水量を既許可の900立方尺毎秒(25.04立方メートル毎秒)から1,200立方尺毎秒(33.39立方メートル毎秒)へと増加する申請を行う。さらに翌1916年(大正5年)6月には、読書村(現・南木曽町読書)から田立村(現・南木曽町田立)にかけての引用区間を、「読書」と「賤母」の2地点へと分割・変更するという計画見直しも申請した。このうち「賤母」地点については、1917年(大正6年)3月水利権が名古屋電灯に許可された。なお許可使用水量は1,300立方尺毎秒(36.17立方メートル毎秒)であった。 水利権許可までの間に、帝室林野管理局との間の木材輸送問題についても代替の森林鉄道を会社側の負担で建設する、という条件で解決された。この木材輸送問題につき、長野県より許可された水利権には、中央本線の三留野駅(現・南木曽駅)や坂下駅に連絡する森林鉄道の敷設命令が付されている。
※この「水利権の獲得」の解説は、「賤母発電所」の解説の一部です。
「水利権の獲得」を含む「賤母発電所」の記事については、「賤母発電所」の概要を参照ください。
- 水利権の獲得のページへのリンク