水利施設の建設と繁栄、衰退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 01:34 UTC 版)
「シューシュタル」の記事における「水利施設の建設と繁栄、衰退まで」の解説
シューシュタルは、アケメネス朝時代には Šurkutir と呼ばれていた。この名前は、アケメネス朝の首都であったスーサにも関連しており、スーサよりも立派な都市を意味する。 サーサーン朝時代になると、シューシュタルはカルン川 (en) に浮かぶ中州となり、サーサーン朝における夏の首都に選ばれた。カルン川は、シューシュタルを囲む堀の役割を果たし、東・西・南の三方にシューシュタルの町へ渡ることが可能な橋がかけられた。シューシュタルのそばを流れる幾筋の河川がシューシュタル周辺の農業の発展に貢献した。そこでは、サトウキビや主要農産物が生産された。 サーサーン朝のシャーであるシャープール1世は、ローマ帝国皇帝ウァレリアヌスを打ち破った際に、ローマ人捕虜を用いて、カエサルの橋(en)と呼ばれる 550 m の長さに及ぶ巨大な橋梁・ダムを建設させている。 シューシュタルの周辺に張り巡らされた水利網を Ghanat と呼び、河川とため池や建物とを結び、シューシュタルの町に水を供給した。戦時には、シューシュタルの城門は閉じられた。これらの Ghanat 群は、今日でも、シューシュタルの地下室でも見受けられる。 19世紀になると、シューシュタルの水利施設は存亡の危機に立たされた。結果として、19世紀以降、シューシュタルは衰退の一途をたどり、1973年にモハンマド・レザー・パフラヴィーがシューシュタルの再建に動くまで、衰退が続くこととなった。
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