サーサーン朝時代
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224年、サーサーン朝ペルシアのアルダシール1世がアルサケス朝からクテシフォンを占領。これから数年以内に旧パルティア領内にあった多くの勢力がサーサーン朝に征服された。226年にはクテシフォンでアルダシール1世の戴冠式が行われ、中央集権的な支配体制が構築された。そして首都を重要性の高かったメソポタミアの中枢であるクテシフォンに移した。なお、その後のサーサーン朝君主は一族発祥の地であるスタフルで戴冠式を挙げるようになる クテシフォンは元々セム系が多く、キリスト教・ユダヤ教・マンダ教・グノーシス主義などが流行しており、サーサーン家が信仰するゾロアスター教は少数派であった(この状況はサーサーン朝滅亡まで変わることはなかった)。そこで、アルダシール1世の後継者シャープール1世はユダヤ教指導者や新興宗教(後にマニ教と呼ばれる)の教祖マニを王宮に招くなど、寛容な宗教政策を採った。このため、マニ教本部もクテシフォンに置かれていたが、ゾロアスター教神官カルティールによる迫害が始まると、3世紀末にバビロンへ移転した。 サーサーン朝とローマの間でもクテシフォンは係争地となった。295年、ローマ皇帝ガレリウスはクテシフォンの近くでペルシアに敗北した。屈辱を晴らすためガレリウスは1年後に舞い戻り、戦争に大勝して4度目の占領を行った。ガレリウスはアルメニアと引き換えにクテシフォンをナルセ1世に返還した。このようにサーサーン朝はローマと対立していたため、ローマで迫害されていたキリスト教には好意的であった。4世紀にはセレウキア・クテシフォンに府主教座が設けられ、初代府主教にバル・アッガイが就任した。しかし、ミラノ勅令によってローマ帝国でキリスト教が公認(312年)されると、今度はサーサーン朝でもキリスト教迫害(339年-379年)が始まり、セレウキア・クテシフォン府主教からも殉教者を出した。しかし、ヤズドギルド1世の代になるとキリスト教徒との融和が図られ、410年にセレウキア・クテシフォンで公会議が開かれた。これによりセレウキア・クテシフォンを中心としたサーサーン朝における六大教会が整備された。しかしヤズドギルド1世は不審死を遂げ、420年頃から再びキリスト教迫害が行われた。クテシフォンの府主教がローマで異端宣告されたネストリウス派に移ると、サーサーン朝の態度は軟化し、484年頃に迫害は停止された。そしてセレウキア・クテシフォンの府主教は東方総主教に昇格、ローマとは異なる独自のキリスト教の中心地となった。 バハラーム5世からは戴冠式をスタフルで行いクテシフォンに戻る体制が改められ、クテシフォンで戴冠した後、ガンザクへ巡礼するようになった 627年、ニネヴェの戦いでサーサーン朝に勝利した東ローマ皇帝ヘラクレイオスがサーサーン朝の首都であるクテシフォンを包囲したが、和平を結んで引き揚げた。 637年、正統カリフ・ウマルの時代にアラブ諸部族から成るムスリム軍による対サーサーン朝との戦争はついにイラク(メソポタミア)にまで及び、イラク地方に進攻したサアド・ブン・アビー=ワッカース(英語版)が率いる部隊はサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世が派遣した総司令官ロスタム麾下のサーサーン朝軍に対し、カーディシーヤの戦いにおいて勝利した。サアド率いるムスリム軍はチグチス東岸の諸都市を次々に征服しクテシフォン近郊まで迫ったため、これによってヤズデギルド3世は北東にあったフルワーンまで逃亡した。アッバース朝時代の記録よると、この年は飢餓と悪疫に見回れ防衛戦力の低下に悩まされていたが、クテシフォンの守備軍はとチグリス川に掛かる全ての船橋を落としてムスリム軍の侵攻を防ぎ抗戦した。しかしムスリム軍は人馬ともに水流に乗って渡河する作戦に出た。クテシフォンの各地区はムスリム軍に対しておのおの抗戦しあるいは帰順したが、ついにはクテシフォンの全地区は陥落した。
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サーサーン朝時代
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