サーサーン朝後期と初期イスラム帝国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 14:48 UTC 版)
「トゥーラーン」の記事における「サーサーン朝後期と初期イスラム帝国時代」の解説
歴史における、遊牧系民族による北東部の境界への継続的な侵入によりトゥーラーン人の記憶が生き続けることとなった。6世紀後、他の部族により西へと追いやられたテュルク系民族はイラン系民族と近接して暮らすようになり、トゥーラーン人と認識された。テュルク系民族をトゥーラーン人と識別するようになったのは7世紀前半頃とされている。テュルク系民族は6世紀にイラン系民族と初めて接触した。 C.E. Boseworthは以下のように述べている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}イスラム時代初期、ペルシア人はホラーサーン北東部と、フェルドウスィーのシャー・ナーメではフェリドゥーンの息子トゥールに割り当てられた土地とみなされていた、トゥーラーンの地域にあるアムダリヤ川より手前にあるすべての土地を自分たちの土地と考える傾向にあった。トゥーラーンの住民にはテュルク系民族が含まれていた。彼らはイスラム帝国建設以降の4世紀の間は本質的にヤクサルテス川を超えた地域で遊牧生活を送っていた人々であり、彼らの領土をさらに超えた地域には中国人が住んでいた (Kowalski, Minorskyの「Turan」を参照)。その後トゥーラーンは民族的、地理的用語として使用されるようになったが、この用語には常に曖昧さや矛盾が含まれていた。これは、イスラム帝国時代を通してトゥーラーンの土地はアムダリヤ川を超えるとすぐの地域であり、同時にその下流域はソグディアナ人やホラズム人のような、テュルク系民族ではなくイラン系民族である人々の故郷であったという事実から生じている。 テュルクという単語とトゥーラーン人という単語はイスラム帝国時代にほぼ同義語として使用されるようになった。シャー・ナーメ (王の書) では2つの用語を同等なものとして使用している。Tabariやハキーム・イーラーンシャーを含む他の作家もこれに続いている。はっきりとした例外としてアラブの歴史家アブル=ハサン・アリー・イブン・マスーディー (Abl-Hasan Ali ibn Masudi) がおり、彼は「アフラースィヤーブはテュルクの土地において誕生しており、歴史家や非歴史家が彼をテュルク人であるとみなす誤りを犯すのはこれが理由である。」と述べている。10世紀までに、アフラースィヤーブの神話はカラハン朝に取り入れられた。サファヴィー朝時代には、シャー・ナーメから続く使用法の伝統により、トゥーラーンという用語はサファヴィー朝と対立するウズベク・ハン国の領域を指す用語として用いられた。 複数の言語学者が、トゥーラーンという単語はインド・イラン語派の語根トゥーラ- (tura-、強い、速い、剣(パシュトー語)を意味する) に由来していると述べており、パシュトー語でトゥーラーン (thuran) は「剣士」を意味する。他の関連として、古ペルシア語でトル (tor、闇や黒を表す) が指摘されており、これは新ペルシア語の「タール (tār)、パシュトー語のトル (thor)」との関連性がある。このケースでは、アールヤー (Ārya) に暮らすゾロアスターの「明るい」文明と対比して、中央アジアの遊牧民の文明を「昏い」文明であると表現するために用いられたと考えられている。
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