イスラム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 05:41 UTC 版)
652年、イスラム帝国のアラブ人がホラーサーン地方を征服すると、それからまもない時期にヘラートもイスラム共同体(ウンマ)の支配下に入った。ウマイヤ朝期のホラーサーンには支配者として多くのアラブ人が入植し、ヘラートは帝国の辺境であったがためにしばしば宗教と政治をめぐるアラブ人同士の争いの舞台となった。 8世紀にウマイヤ朝にとってかわったアッバース朝のもとではイスラム教を受容したイラン系の原住民が都市の主導的な役割を再び握るようになり、東方イスラム世界を代表する貿易都市のひとつとして栄えた。アッバース朝が衰え中央アジアでイスラム諸王朝の興亡が激しくなるとヘラートの支配者もめまぐるしく交代したが、12世紀の後半にもともとヘラートの東方にあたるハリー・ルード川上流の山岳地帯の地方王朝であったゴール朝がヘラートを奪取。ゴール朝の最盛期を築いたギヤースッディーン・ムハンマドはヘラートを事実上の首都とし、1201年に現存する金曜モスクを建立するなど、ヘラートの繁栄は一度目の頂点に達した。 しかし、ギヤースッディーンの死後にゴール朝は急速に衰え、ヘラートを含めてホラズム・シャー朝に併合される。1219年よりモンゴル帝国のチンギス・ハーンが行った西方遠征により、ホラズム・シャー朝支配下の中央アジアの諸都市は壊滅的な打撃を受けるが、ヘラートもその例外とはならなかった。 1221年、モンゴル軍はヘラートを攻略し、その城塞を破壊した。多くの住民が殺害され、モンゴル軍の目から逃れて生き残った住民も、破壊された都市に帰って城塞を建て直そうとしたために翌年再びモンゴル軍の侵攻を受け、ヘラートは二度にわたって徹底的な破壊を受け、ほとんど廃墟と化したといわれる。 金曜モスク ヘラートの金曜モスク
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