イスラム武力集団の壊滅と「説教と戦闘の為のサラフィー主義者集団」の継続
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「アルジェリア内戦」の記事における「イスラム武力集団の壊滅と「説教と戦闘の為のサラフィー主義者集団」の継続」の解説
行動に対ための国際的なプレッシャーを受けたのち、EUは二つの代表団を派遣した。その一つはマリオ・ソアレス元ポルトガル大統領によって率いられた代表団であり、1998年の上半期にアルジェリアを訪問し虐殺を調査した。この代表団のレポートはイスラム武装団を非難していた。町々はすぐに平穏になったが、虐殺は農村部では継続されていた。民間人虐殺のGIAの方針は、このときすでに虐殺を拒否する指揮官たちの離反を発生させていた。このGIA内部の不和は1998年の9月14日の説教と戦闘の為のサラフィー主義者集団 (GSPC)の結成によって公のものとなった。彼らはカビラ西部の山岳地帯を拠点としておりハッサン・ハッターブに率いられていた。 9月11日ゼルアルの辞任に人々は驚いた。1999年4月15日に選挙が行われ、かつての独立戦争の闘士であったブーデフリカが選挙で選出され、政権に復帰した。当局によれば74%の得票率であった。他の全ての立候補者は違法選挙を懸念して、すぐに選挙から手を引いた。ブーデフリカはAISとの交渉を継続し、6月5日には、原則としてAISは解散するとの合意にこぎつけた。ブーデフリカは「市民和解法」を推進し、軽微な犯罪で有罪判決を受けて収監されている多数のイスラム主義者に恩赦を与えた。「市民和解法」は殺人あるいは強姦を犯していないイスラム主義戦士はあらゆる訴追から免れることを保障したものであった。 1999年の9月16日の国民投票で「市民和解法」は承認され、ムスタファ・カルタリを含む多数の戦士が同法を利用して、投降した。彼らはゲリラに苦しめられてきた人々の怒りを買いながらも通常の生活に復帰した。この結果にFISの指導部は不満を表明した、AISがなんら問題を解決しないままに戦闘を停止したと感じたからであるが、 アブドゥルカードゥル・ハーシムのような監獄の外の主な声は11月22日に暗殺された。暴力は減少したが完全になくなったわけではなかった。正常化への第一歩はじまったのである。 2000年1月11日に、政府との恩赦に関する特別な交渉があり、AISは完全に解散した。翌年からGIAは軍事作戦によって徐々に消滅させられ、2002年のアンタール・ズワブリの死で完全に無力化した。政府のこのような努力は2001年の9月11日の同時多発テロののち評価を押し上げ、アメリカ合衆国のアルジェリアへのシンパシーを増大させた。それはGIAとGSPC の活動資金の凍結と、軍への赤外線ゴーグルの供給によって具体的に表れている。 GIAの減少とともに、GSPCは最大の反政府勢力ではなくなった。2003年には戦士の数は300人ほどであった。 彼らは、警察や軍の孤軍に対する暗殺テロをそこの地域で継続させ、また南部のサハラ地域へと拡大させようとしており、アマリ・セフィー (通称"Abderrezak el-Para",「落下傘のアブドゥルザク」)に率いられた集団は、人口がまばらなマリ、ニジェール、チャドのサヘル地域への逃走を余儀なくされる前の2003年に多数のドイツ人旅行者を誘拐した。サヘル地域で「落下傘のアブドゥルザク」は逮捕され、2003年までに集団の創設者は、いっそう過激なナービル・サラウィにとって替えられた。彼はアルカイダ支援を表明したため、強硬な態度のアルジェリア政府はアメリカ合衆国と手を結んだ。仄聞によれば彼はその後まもなく殺害され、2004年にアブー・モッサーブ・アブドゥルウアドゥードが指導者の地位を継承したという。
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