イスラム法と飲酒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 09:33 UTC 版)
「イスラム教における飲酒」の記事における「イスラム法と飲酒」の解説
イスラム法では飲酒を明確に禁止している。ただし、飲酒の禁止に至るまでには以下の経緯があり、酒に関して計4節がアッラーによって下されたとされる。 初めにメッカで、第16章67節『また、ナツメヤシとブドウの果実からも。お前たちはそれから酔わせるものと良い糧を得る。まことに、その中には思考する民への徴がある。』が下された。この時はまだ酒は禁止されていなかった。 次にマディーナで、ウマル・ブン・アル=ハッターブ、ムアーズ・ブン・ジャバルたちが預言者ムハンマドの許を訪れて、「アッラーの御使い様、酒と賭け矢について私たちに法判断を下してください。どちらも理性を去らせ、財産をなくさせるものです」と問うた。これに答える形で、第2章219節『彼らは酒 と賭け矢についておまえに問う。言え、「その二つには大きな罪と人々への益があるが、両者の罪は両者の益よりも大きい」。また彼らは、なにを(善に)費やすべきかとおまえに問う。言え、「余分なものを」と。こうしてアッラーはおまえたちに諸々の徴を明らかにし給う。きっとおまえたちは考えるであろう。』が下された。そこである人たちは「罪が大きい」という言葉より酒を遠ざけたが、またある人たちは「人々への益がある」という言葉より酒を飲み続けた。 アブドゥッラフマーン・ブン・アウフが預言者ムハンマドの弟子たちを食事に招いて、酒を飲ませた。日没の礼拝の時間が来たので人々は一人に礼拝の先導をさせ、彼はクルアーンを読誦したが「言え、不信仰者たちよ、おまえたちが仕えるものに私は仕える」と否定詞抜きに最後まで読んでしまった。そこでアッラーは、第4章43節(の冒頭)『信仰する者たちよ、おまえたちが酔っている時には、言っていることが分かるようになるまで、礼拝に近づいてはならない。』を下して、礼拝時の飲酒を禁じ給うた。そこで人々は礼拝の時には酒を遠ざけたが、ある人は夜の礼拝後に酒を飲んで、酔ったまま朝を迎え夜明け前の礼拝をし、その後また酒を飲んで、昼の礼拝時にはしらふに戻っていた。 ある時、マディーナの信者であるイトバーン・ブン・マーリクがメッカのクライシュ族の移住者であるサアド・ブン・アブー・ワッカースを含むムスリムたちを食事に招いた。彼らには焼いたラクダの頭部が振る舞われた。人々は食べ、酔うまで飲み、その状態で家柄の自慢を始め、詩を歌った。ある人たちが自分の一族を誇る歌を歌って、マディーナの信者たちを笑い者にした。そこで彼らの一人がラクダの顎の骨をつかみそれでサアドの頭を叩いて、重傷を負わせた。サアドは預言者に訴えた。すると、ウマルは、「アッラーよ、私たちに酒についてはっきりとした明証を示し給え」と言った。アッラーは第5章90-91節『信仰する者たちよ、酒と賭け矢と石像と占い矢は不浄であり悪魔の行いにほかならない。それゆえ、これを避けよ。きっとおまえたちは成功するであろう。/悪魔は酒と賭け矢によっておまえたちの間に敵意と憎しみを惹き起こし、おまえたちをアッラーの唱念と礼拝から逸らそうとしているにほかならない。これでおまえたちもやめる者となるか。』を下し給うた。そこでウマルは、「主よ、私たちは止めました」と言った。 日本においては実際処罰の対象がないことなどから、信仰の弱いイスラム教徒の飲酒も冠婚葬祭などみられることがあるが厳格なイスラム教徒は飲酒しない。[要出典] クルアーンに記されている酒らしき飲み物を表す語句には「真白」、「強い飲み物」、「ハムル(ワイン)」があるが、酒の定義に関してイスラム法学者のあいだで古くから議論がある。例えば、クルアーン成立後に開発された蒸留酒アラックはクルアーンで禁じられたハムルなのか、果汁が自然発酵して酒になった場合廃棄すべきか、などの疑問である。スンナ派4法学派のうち、オスマン帝国で支配的だったハナフィー派はもっとも酒に関して寛容な立場をとった。
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