モンゴル軍の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 02:14 UTC 版)
「モンゴルの西遼征服」の記事における「モンゴル軍の侵攻」の解説
チンギス・カンはホラズム・シャー朝に西遼への非協力を要請した後、1218年に将軍ジェベが率いる20,000の軍隊を西遼に派遣した。ジェベはアルマリクを包囲から解放した後、ベラサグンの包囲に向かった。ベラサグンにおいてジェベは30,000の西遼軍を破り、敗れたクチュルクはカシュガルに逃亡する。カシュガルに進軍したジェベは信仰の自由を約束し、これを知ったカシュガルの住民は市内のクチュルクの兵士を殺害した。ジェベはなおも逃走するクチュルクを追ってパミール山脈を越え、バダフシャーン地方に進入する。イルハン朝の歴史家アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーはクチュルクの最期について、現地の猟師たちに捕らえられてモンゴル軍に引き渡され、ただちに斬首されたと伝えている。モンゴル軍はクチュルクの首を掲げて支配下に置かれていた都市を訪れ、それぞれの都市で歓迎された。
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