モンゴル軍の第三次侵攻
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「モンゴルのベトナム侵攻(英語版)」および「元越戦争 (1287年)(ベトナム語版)」も参照 戦後、再度の元軍の侵入に備えて陳国峻は兵士の訓練に励み、武器と艦船の増産を指示した。一方の元も過去の戦争で食料確保に苦しんだ失敗を踏まえ、艦船による食糧の輸送体勢を整える。1287年12月より元軍は大越に侵入し、元軍は長期戦に備えて万劫(ヴァンキュプ、現在のハイズオン省)に城砦を築いた。仁宗は昇龍を脱出し、紅河デルタで元軍が築いた拠点を巡っての大越軍と元軍の戦闘が展開される。戦況が変化するのは、雲屯(ヴァンドン、現在のクアンニン省ハロン市)で聖宗の養子の陳慶余(中国語版)(チャン・カイン・ズ)の率いる部隊が物資を搭載した元の補給艦隊を破った時であった。食料の確保と拠点の防衛に支障をきたした元軍は陸路と海路の二手に分かれて撤退を開始するが、陳国峻は将軍の范五老を諒山(ランソン)に派遣し、范五老の率いる伏兵によって陸からの退路を絶った。1288年3月にベトナム軍は白藤江(バクダン江)(英語版)を下ろうとする元軍に勝利し(白藤江の戦い (1288年))、さらに諒山で待ち伏せていた范五老の軍が退却中のトゴンの軍に打撃を与える。 戦後、仁宗は元に対して臣従の使者を送るとともに、捕虜を丁重に送り返した。元では4度目の大越遠征の計画が持ち上がるが、クビライの没後に遠征計画は中止された。戦後、元に対して積極的に朝貢を行い、従来の中華王朝と同様の冊封関係を築いた。
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