モンゴル遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 06:16 UTC 版)
西ではモンゴルのチャハル部も明と同盟を結び、後金に敵対するようになった。1627年、リンダン・ハーンがカルカ部に侵入し、ナイマン部、アオハン部はホンタイジに助けを求めた、またカラチン部、オルドス部、アバイ部、アスド部など諸部が手を結び、リンダン・ハーンと戦った。勝利はしたものの報復を恐れた諸部は、ホンタイジに救援を求め、ホンタイジは満蒙の連合の盟主となった。1628年、自ら兵を率いたホンタイジはトラド部の軍勢を破った。この年の秋、カラチン部、ナイマン部、アオハン部などの諸部と連携してシルガ、シベトゥ、タントゥなどに進軍し、大興安嶺まで勢力が達した。それから数年間にらみ合いが続いたが、天聡5年(1631年)にリンダン・ハーンに勝利した。1632年3月にリンダンが明に投降したことを知るとホンタイジは激怒し、ドルゴン、アジゲ、ドドを連れてジョーオダ(昭烏達)に着き、モンゴル諸部の兵と合流して総兵力は10万となった。しかしリンダンは捕まらず、6月に瀋陽に帰還する。その途上、ホンタイジはリンダン・ハーンが死去したことを知る。リンダン・ハーンの妻子がいることを知ったホンタイジは、次に妻子を捉えようと再び兵を進める。ドルゴン、ヨト、サハリャン、ホーゲはそれぞれ万騎を従え、1か月捜索を続けた。 逃亡生活に疲れた王妃とリンダンの息子エジェイは、元の玉璽をホンタイジに献上して帰順を願った。この帰順を喜んだホンタイジはリンダン・ハーンの罪を許し、エジェイを外藩親王に封じた。明の「西遼」をもって「東夷」を制するは挫折した。また1635年、貂皮などの産物を朝貢する黒竜江下流地域の部族に兵を派遣する。
※この「モンゴル遠征」の解説は、「ホンタイジ」の解説の一部です。
「モンゴル遠征」を含む「ホンタイジ」の記事については、「ホンタイジ」の概要を参照ください。
- モンゴル遠征のページへのリンク