モンゴル軍閥説とは? わかりやすく解説

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モンゴル軍閥説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:44 UTC 版)

李成桂」の記事における「モンゴル軍閥説」の解説

韓国東洋史学者・尹銀淑(ユンウンスク)と中国モンゴル人学者・エルデニ・バタル(内モンゴル大学教授)は博士学位論文通じて李成桂モンゴル軍出身で、李成桂家門は旧高麗領に置かれた元の直轄統治機構である双城総管府でほぼ100年間にわたりモンゴル官職務め勢力伸ばしたために、李朝建国することができたという新し学説提唱している。 尹銀淑は学位論文『蒙元帝国期オッチギン家東北満州支配』において1314世紀東北満州地域を元のオッチギン家支配したという事実に注目した述べている。チンギス・カン1211年征服した土地近親者分け与え、弟のテムゲ・オッチギンには東北満州地域統治させた。オッチギンは遊牧農耕基盤にこの地で独立的勢力形成していた。 李成桂高祖父李安社全州から豆満江流域の斡東地域移り、後の1255年千戸長、ダルガチ地位モンゴル皇帝から賜ったが、千戸長はモンゴル族以外の人が任命されることが非常に珍しい高位の職であることから、実質的にはオッチギンから認められ軍閥勢力就任していたと述べている。1290年オッチギン家内紛起きたため、李安社の子李行里は斡東の基盤失って咸興平野移住したが、千戸長、ダルガチ職位李行里曾孫である李成桂の時まで五代渡って世襲された。エルデニ・バタルは学位論文元・高支配勢力関係性格研究』において李成桂一門オッチギン家通じ当時最先端にあったモンゴル帝国軍事技術直接吸収しその後オッチギン家直属の斡東と双城総管府多く条件活用して自らの勢力育てた李成桂1362年に元の将軍ナガチュとの戦闘で、この先技術用いて勝利していると述べている。 尹銀淑は1388年威化島回軍も、モンゴル内部事情精通している李成桂が、明軍攻勢によってブイル・ノールの戦い惨敗した北元軍事力崩壊されたことを把握した上で起こした「旧モンゴル将軍の裏切り」と見るべきだと述べている。従って、李氏朝鮮建国朝鮮半島自生的産物としてだけでは見る事は出来ずモンゴル帝国中心地である北東アジアで、13世紀から14世紀起きた激変歴史総体的果実として生まれた王朝李氏朝鮮であり、朝鮮王朝表面では親明事大標榜していたにもかかわらずパクス・モンゴリカ体制中心である北方遊牧帝国伝統事実上維持し続けていたと述べている。

※この「モンゴル軍閥説」の解説は、「李成桂」の解説の一部です。
「モンゴル軍閥説」を含む「李成桂」の記事については、「李成桂」の概要を参照ください。

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