勢力関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 02:23 UTC 版)
●-小杵 ●-笠原使主 ●-上毛野氏 南北武蔵の抗争説の配置 小杵-● ●-笠原使主 ●-上毛野氏 北武蔵の抗争説の配置 埼玉県行田市には関東有数の大型古墳群として埼玉古墳群が残っており、武蔵国造の本拠地と推測する説もあるが、同古墳群は北部に寄り過ぎていて知々夫国造の墓とする説もあり、また支族に過ぎない笠原直の本拠地が埼玉郡笠原にあるとすれば古墳の分布から見て武蔵国造本宗の本拠地は多摩川下流と見る説もある。また助けを求められた上毛野小熊は、その名のように上毛野地域(のち上野国、現在の群馬県)の国造であった上毛野国造族の一人である。それらを基に、乱の舞台・規模を巡って、埼玉古墳群を笠原直の墓と見る立場からは次の2説が存在する。 南北武蔵の抗争とする説使主の拠点は北武蔵(埼玉古墳群)、小杵の拠点は南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)とする説。そして、乱後に小杵の領域から橘花・多氷・倉樔の屯倉が供出されたとする。小杵と上毛野が使主を挟む形になる。 北武蔵での抗争とする説使主の拠点は北東武蔵(埼玉古墳群)、小杵の拠点は北西武蔵(比企地方の古墳群)とする説。小杵と上毛野が隣接し協力を得やすい形になる。 考古学的には、5世紀から6世紀で武蔵地方の古墳群の中心が南武蔵から北武蔵に移動する。また、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方で北武蔵の埼玉古墳群が成長するという傾向も、関連する出来事として指摘される。
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