モンゴル軍の第一次侵攻
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「モンゴルのベトナム侵攻(英語版)」および「蒙越戦争 (1257年)(ベトナム語版)」も参照 太宗の治世の末期である1257年から、雲南を占領したモンゴル軍によるベトナム侵攻が始まる。 1257年末にモンゴルのウリヤンカダイ率いる軍隊が北方の国境地帯に現れ、太宗にモンゴルへの従属を求める使者を送った。3度送られたモンゴルの使者はいずれも太宗の命令で投獄され、大越ではモンゴルの侵入に備えて軍備が整えられた。同年末に使者が帰還しないことに業を煮やしたウリヤンカダイの攻撃が始まった。モンゴル軍は紅河を渡河して昇龍を略奪し、太宗は昇龍を放棄して陳守度と共に南方の天幕(ティエンマク、現在のハナム省ズイティエン)に退避した。モンゴル軍が北方に引き返すと太宗は次男の陳晃(聖宗)に譲位し、使節をウリヤンカダイの軍隊に同行させて大ハーン・モンケの宮廷に派遣した。 モンケの没後にクビライが大ハーンに即位して元が成立した後も、聖宗はモンゴルへの臣従政策を維持する。1262年に聖宗は元に一定額の金銀宝石、医薬品、象牙、犀角を3年に1度貢納すること(三年一貢)を約したが、1267年に大越に以下の条件が新たに課される。 国王自身の来朝 人質として王子を差し出す 戸籍簿の提出 兵力の提供 租税の納付 元から派遣された代官(ダルガチ)の駐屯 元が課した要求は過大な貢物と国王の入朝が要求される反面、元の軍事作戦が成功すればその恩恵に与ることができるという、中央アジアなどの他国家に課せられていたものだった。だが、大越は元からの要求に抵抗を示した。
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