モンゴル軍の大侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 15:22 UTC 版)
「モンゴル・南宋戦争」の記事における「モンゴル軍の大侵攻」の解説
あしかけ4年にわたる帝位継承戦争を制したクビライは、第5代皇帝(カアン)に即位し、まだ中央アジア方面に残る反乱分子との戦いと並行して南宋侵攻を企画した。南宋作戦の難しさを身をもって知るクビライは、まず江南ではその長所を十分に生かし切れないモンゴル騎兵を主体とする作戦をやめ、ごく少数のモンゴル騎兵を中核とした契丹、女真、漢人の混合部隊に、さらに旧華北の軍閥の歩兵主体の大兵団を加えた3重構造の軍団を再編成した。 1268年、アジュを主将、史天沢を副将格とするモンゴル軍は南下を開始し、まず樊城を囲んだ。襄陽・樊城攻防戦は5年にわたって行われ、呂文煥以下の南宋軍は非常に良く抗戦したものの、周到に準備・計画を行ったモンゴル軍に敵わず、1273年に降伏した。 大いにモンゴル軍を苦しめた呂文煥であったが、すでになるべく無傷で江南の地を取ろうと考えていたクビライは大いに優遇し、味方に引き入れようと努めた。十分な援軍を送ろうとしなかったとして賈似道政権に不満を持っていた呂文煥は、クビライに忠誠を誓い、モンゴル軍に寝返った。 襄陽・樊城の陥落と呂文煥の投降が南宋の人民に与えた衝撃は大きく、また呂文煥が長年の人脈から長江流域に広く調略を行ったため、南宋は急速に基盤を緩めつつあった。この状況を見て取ったクビライは南宋への大侵攻を決定、バヤンを総大将とする空前の大軍が南下を始めた。 バヤンは自ら20万の大軍を率いて漢水に沿って襄陽から安陸府へ南下し、漢口(武漢)で南宋の艦隊に阻まれた。呂文煥の案内で密かに軍の一部を徒渉させて艦隊を挟撃する構えをとったことで、おびえた南宋艦隊は撤退し、1274年には鄂州がモンゴル軍の手に落ちた(鄂州の役 (1274年))。 もともとバヤンはクビライにむやみに敵を殺害することを避け、できるだけ無傷で降伏させていくよう命令されていたため、鄂州でも一切の略奪を禁ずるなど丁重に扱っていたが、これが南宋側にも伝わると続々と投降者が出た。水陸並んで長江を下るモンゴル軍は投降した兵によって膨れ上がり、ようやく出陣してきた賈似道の軍も蕪湖の戦いで粉砕して臨安に迫った。 1276年、臨安は無血開城し、南宋は事実上滅亡した。張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚により抗戦が続けられたが、広州湾において崖山の戦いでモンゴル軍に撃滅され、南宋は完全に滅びた。
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