鄂州の役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 15:22 UTC 版)
オゴデイ死去後、第3代皇帝(カン)グユクとバトゥの対立などで一時、モンゴル帝国内で混乱が起こったが、モンケがカアンに即位するとその混乱も収まり、再びモンゴル帝国は東西への大遠征を企画した。モンケは実弟クビライ、フレグにそれぞれ東アジア、西アジアの経略を委ねることを発表した。 1251年、クビライは金蓮川に入るとそこを本拠地とし、南宋侵攻を計画した。まず手始めにクビライは南宋を包囲するため、1253年に雲南・大理遠征で大理国を屈服させたものの、以後は金蓮川から動かず高麗遠征、南宋侵攻の指揮を執り、南宋の攻略に関しては長期戦に持ち込む構えをとった。 しかし短期決戦を望むモンケは、クビライの慎重策に不満を持ち、クビライを更迭、タガチャルを起用した。そのタガチャルも襄陽・樊城を攻撃したものの、何故かすぐに撤退を始めた。激怒したモンケは今度はタガチャルを更迭して再びクビライを起用し、自ら南宋侵攻に打って出るも、各隊の連携がうまくいかずモンケの軍のみが突出しすぎる形となり、1259年に釣魚城(中国語版、英語版)(現重慶市合川)攻略中のモンケが軍中にはやった疫病により死去した。 モンケの死により、カアン(ハーン)位はクビライとアリクブケの間で争われることとなったが、クビライは急いで北還することで配下の軍勢、特に漢人部隊が離散することを恐れ、逆に南下することで配下の軍勢を留め置いた。南下したクビライは、モンゴル軍としては初めて長江を渡り、鄂州(現武漢)を包囲した(鄂州の役 (1258年 - 1259年))。 一方、モンケの死によるモンゴル軍の不規則な行動を図りかねていた南宋は、モンゴル軍が長江を渡ったことに衝撃を受けて、賈似道を鄂州に派遣した。しかしこの頃には、クビライ陣営に帝国の有力者タガチャルが加わり、加速度的にクビライに就く旧南宋遠征軍は増えており、クビライはすでに北還を決意していた。 援軍に来た賈似道は、長江を渡ろうとしていたモンゴル軍の一部を襲撃、撃破した。この時の勝利をもとに、賈似道はその後宰相にまで出世したが、当時から賈似道とクビライの間に密約があったのではないかという噂がささやかれ、この戦闘の戦果を疑問視する説もある。
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