鄂軍での台頭とは? わかりやすく解説

鄂軍での台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:45 UTC 版)

夏斗寅」の記事における「鄂軍での台頭」の解説

夏斗寅幼い頃から巨躯膂力優れ学問は好まなかったと言う。そこで湖広総督張之洞武昌組織した新軍加入しよう図り1900年光緒26年)、湖北武普通学堂に入学した卒業後は湖北新軍第8鎮第30標で司書文書管理官)に任ぜられている。新軍では革命思想の影響を受け、革命派秘密結社である共進社(共進会)に加入した武昌起義辛亥革命に際しては、総督衙門攻撃参加している。中華民国成立後に夏は一時軍人引退したが、まもなく河北向かい湖北省出身大同鎮守使孔庚配下となったその際同郷張篤倫友人になり、まもなく張と共に湖北に戻る。張篤倫は鄂軍(湖北陸軍)第1師参謀長に任ぜられ、夏もその配下の掌旗官となった1917年民国6年12月、鄂軍第1師師長石星川孫文孫中山)の護法運動呼応し南方政府派の湖北靖国第1軍総司令に任ぜられると、夏斗寅はその下で新兵訓練総監に任ぜられている。まもなく、北京政府湖北督軍王占元派遣してきた呉光新に石の軍は殲滅されてしまったが、夏は懸命に敗軍収拾しつつ岳州湖南省)まで逃れている。そして新たに擁立した南方政府派の鄂軍総司令李書城の下で夏は第2梯団団長に任ぜられた(張篤倫第1梯団団長)。1920年民国9年)、南方政府派の湘軍湖南軍)と協力して湖南督軍張敬尭駆逐し長沙攻略したこの際に夏は推薦長沙防城司令務めている。 1921年民国10年)春、湖北督軍王占元民政混乱招いたことから李書城・孔庚・蔣作賓らが結成した湖北省自治政府による倒王運動開始される夏斗寅湖南督軍趙恒惕支援受けて湖北省自治別働隊指揮官に任ぜられ、7月には湖北省進軍した8月、ついに王を下野追い込んだが、北京政府側は新たに呉佩孚率い軍勢湖北送り込み自治軍は大敗、夏も湖南省退却した1924年民国13年)、夏は趙から瀏陽県など3県を防区として与えられ、ここで自軍訓練増強務めた北京政府側の湖北都督蕭耀南も夏の帰還を望まなかったため、軍事費供与引き換えに夏は湖北戻らないとのを和約結んでいる。

※この「鄂軍での台頭」の解説は、「夏斗寅」の解説の一部です。
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