鄒元標とは? わかりやすく解説

鄒元標

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/15 06:36 UTC 版)

鄒 元標(すう げんひょう、1551年 - 1624年)は、明代官僚儒学者東林党の三君のひとり。は爾瞻、は南皋。本貫吉安府吉水県

生涯

9歳で五経に通じた。弱冠にして王陽明の学統を継ぐ胡直に従って遊学した。1577年万暦5年)、進士に及第した。刑部に入って観政をつとめた。

張居正が父の喪に服さずに政権を握り続けたことから、元標は上疏して張居正の「奪情」について人でなしの禽獣の所業と批判した。張居正の怒りを買い、杖罰80を受け、一兵士として都勻衛に流された。都勻衛は少数民族の住む深山の中にあったが、元標は心穏やかに暮らし、理学の研鑽を進めた。張居正の指示を受けた巡按御史が元標を殺害しようとしたが、鎮遠まで来て突然死した。

1582年(万暦10年)、張居正が死去すると、元標は北京に召還されて吏科給事中に任じられた。最初に培聖徳・親臣工・粛憲紀・崇儒行・飭撫臣の五事を上疏し、ほどなく礼部尚書の徐学謨と南京戸部尚書の張士佩を弾劾した。1583年(万暦11年)、慈寧宮で火災が起こると、元標は時政六事を上疏し、万暦帝に自省と無欲を求めた。女色と遊宴にふけっていた万暦帝の怒りに触れ、1584年(万暦12年)[1]に南京刑部照磨に左遷され、1585年(万暦13年)[2]兵部主事とされた。北京に召還されて吏部主事となり、員外郎に進んだが、病のため免官された。1590年(万暦18年)[3]、吏部験封員外郎に起用されて、吏治十事や民障八事を上疏した。文選に員外郎が欠員となっていたため、吏部尚書の宋纁が元標を任用するよう請願したが、長らく任命を得られなかった。そこで宋纁は続けざまに上疏し、給事中の楊文煥や御史の何選も同様に任命を求めた。万暦帝は怒り、宋纁を問い詰め、楊文煥と何選を外任に左遷し、元標を南京府丞に異動させた。刑部尚書の石星が弁護したが、やはり譴責を受けた。元標は南京にいること3年、病のため帰郷した。長らくを経て、吏部郎中に起用されたが、赴任しなかった。まもなく母が死去したため喪に服し、郷里で講学した。たびたび推挙を受けたが、任用されず、家居すること30年近くに及んだ。

1620年泰昌元年)8月、泰昌帝が即位すると、元標は北京に召還されて大理寺卿に任じられた。12月[4]、北京に着く前に、刑部右侍郎に進んだ。1621年天啓元年)4月、入朝すると、和衷の説を進上した。涂宗濬・李邦華ら18人を推薦し、天啓帝に聞き入れられた。2日後、抜茅闡幽・理財振武の数事および保泰四規を上疏し、葉茂才・趙南星・高攀龍劉宗周・丁元薦らの任用と羅大紘・雒于仁ら15人の官籍登録を求めた。天啓帝はこれもまた聞き入れた。

12月、元標は吏部左侍郎に転じた。官につかないうちに、左都御史に任じられた。1622年(天啓2年)、地方の監察を担当し、公論によって進退を決定した。御史の潘汝楨・過庭訓を批判して官を去らせた。1617年(万暦45年)の丁巳京察で禁錮を受けていた章家禎・丁元薦・史記事・沈正宗ら22人について言上し、その冤罪を雪いだ。また元標の提議により両京の太常寺卿・太僕寺卿・光禄寺卿が2名増員された。

孫慎行が紅丸の案をめぐって方従哲を弾劾する上疏をおこなうと、元標もまた上疏して宦官を非難し、方従哲の優柔不断を批判した。ときに外廷では方従哲や黄克纘らの影響が強く、宮中では崔文昇らが取り繕っていたため、孫慎行らの議論は受け入れられなかった。孫慎行と王紀が追放されるにあたって、元標は上疏して弁護したが、聞き入れられなかった。

元標と馮従吾が首善書院を建て、同志を集めて講学し、時政を議論したことから、給事中の朱童蒙がその禁止を求めた。元標は上疏して弁明し、辞職を願い出たが、天啓帝に慰留された。さらに給事中の郭允厚に弾劾された。魏忠賢室が講学によって滅びたとの旨を伝え、元標に譴責を加えようとした。葉向高が弁護し、温旨を得た。郭興治と郭允厚に上奏文で攻撃され、郭興治には山東の妖賊と喩えられた。元標は引退を願い出て許され、太子少保の位を加えられて、駅馬車に乗って帰郷した。辞去にあたって、「老臣去国情深疏」を上書した。1624年(天啓4年)、家で死去した。享年は74。

1625年(天啓5年)、御史の張訥が元標を強く非難し、魏忠賢が旨と偽って元標の官爵を剥奪した。1628年崇禎元年)、太子太保・吏部尚書の位を追贈された。は忠介といった。著書に『易彀通』1巻・『学庸商求』2巻[5]・『筮仕要訣』1巻[6]・『仁文会語』4巻[7]・『奏疏』5巻・『文集』7巻・『続集』12巻[8]があった。

子女

  • 鄒徳淇

脚注

  1. ^ 談遷『国榷』巻72
  2. ^ 『国榷』巻73
  3. ^ 『国榷』巻75
  4. ^ 『国榷』巻84
  5. ^ 明史』芸文志一
  6. ^ 『明史』芸文志二
  7. ^ 『明史』芸文志三
  8. ^ 『明史』芸文志四

参考文献

  • 『明史』巻243 列伝第131

鄒元標(中国語版)(演:李金楠)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:31 UTC 版)

万暦首輔張居正」の記事における「鄒元標(中国語版)(演:)」の解説

朝廷官吏高潔の士。元はしがない小役人であったが、人一倍正義感強く、特に呉中行趙用賢雒遵韓揖らが張居正奪情(※ごく例外的に「守制」を行わず引き続き官界留まること)に猛反対すると、自身もこれに共鳴し万暦帝公然と諫言。これが万暦帝逆鱗触れ杖刑処され上で辺境流罪とされた。しかし張居正死去すると、張居正一派粛清したいと目論む万暦帝呼び戻され恩赦受けて中央官界返り咲いた

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