鄂豫戦争
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1925年(民国14年)冬に、呉佩孚が漢口で再起し、14省討賊聯軍を組織すると、靳雲鶚は聯軍副司令兼第1軍軍長に任命された。1926年(民国15年)春には、孫伝芳率いる5省聯軍第1軍軍長も兼任している。靳雲鶚は山東省の旧直隷派部隊3個師を接収し、翌1926年(民国15年)1月、寇英傑の第2路軍・劉鎮華の陝甘軍とともに岳維峻率いる国民軍第2軍が支配する河南省を攻める(鄂豫戦争)。23日、山東省泰安の桑梓店で李景林・張宗昌と同盟を交わし、攻略のための軍事費30万元の支援を受ける。2月17日に帰徳に迫ると、第11師第16旅長兼豫東鎮守使・郭振才は無抵抗のまま帰徳を明け渡し、さらに毅軍の米振標も26日に開封を明け渡して従属を表明した。28日、開封各団体の支持で河南全省保安司令に就任、鄭州へと進軍を開始した。3月2日に岳維峻は鄭州を放棄、洛陽へと逃走した。 河南省掌握後、靳雲鶚とは対照的に信陽攻略で辛酸を舐めた寇英傑と互いに権力の座を巡って争ったため、調停に乗り出した呉佩孚は3月17日、靳雲鶚を聯軍副司令兼河南省長に任命する一方、寇英傑を豫軍総司令兼河南督弁の職務を担わせた。財政政策で洋銀を使う決定を行っている。また、呉佩孚より寇英傑とともに阿片の取り締まり強化を命じられるが、実際に取り締まりを担当した賀国光は寇英傑の配下の人間だった。 その頃、南からは中国国民党の北伐、北からは張作霖の奉天派が迫り、呉佩孚の討賊聯軍は次第に追い詰められつつあった。靳雲鶚は呉佩孚に馮玉祥と手を組み張作霖と対抗することを提言したが、逆に張作霖と手を組みたかった呉佩孚は却下した。靳雲鶚は国民軍出身の田維勤とともに保定で国民軍の門致中・蕭振瀛と接触、また張連棻(中国語版)を介して南京の孫伝芳と、潘毅を介して山東省の李景林と内通し、打倒閻錫山・張作霖の計画を進めていた。しかし田維勤と斉燮元に密告され、5月31日、視察のため赴いた呉佩孚より閻錫山も同席していた石家荘の軍事会議の場で突如両職の解任を通達された。後任省長には熊炳琦(中国語版)が就任した。 6月に樊鍾秀が登封で挙兵すると、主として寇英傑が鎮圧にあたったが、靳雲鶚も7月18日、呉佩孚の命で直隷と保定に駐屯していた自身の部隊を省内に戻した。
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