鄂豫戦争とは? わかりやすく解説

鄂豫戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 16:28 UTC 版)

靳雲鶚」の記事における「鄂豫戦争」の解説

1925年民国14年)冬に、呉佩孚漢口再起し14省討賊聯軍を組織すると、靳雲鶚は聯軍副司令兼第1軍軍長任命された。1926年民国15年春には、孫伝芳率いる5省聯軍第1軍軍長兼任している。靳雲鶚山東省の旧直隷派部隊3個師を接収し、翌1926年民国15年1月寇英傑の第2路軍・劉鎮華の陝甘軍とともに岳維峻率い国民軍第2軍支配する河南省攻める(鄂豫戦争)。23日山東省泰安桑梓店で李景林張宗昌同盟交わし攻略のための軍事費30元の支援を受ける。2月17日に帰徳に迫ると、第11師第16旅長兼豫東鎮守使・郭振才は無抵抗のまま帰徳を明け渡し、さらに毅軍の米振標26日開封明け渡して従属表明した28日開封団体支持河南全省保安司令就任鄭州へと進軍開始した3月2日岳維峻鄭州放棄洛陽へ逃走した河南省掌握後、靳雲鶚とは対照的に信陽攻略辛酸舐めた寇英傑互いに権力の座巡って争ったため、調停乗り出した呉佩孚3月17日靳雲鶚を聯軍副司令兼河南省長に任命する一方寇英傑を豫軍総司令河南督弁の職務を担わせた。財政政策洋銀を使う決定行っている。また、呉佩孚より寇英傑とともに阿片取り締まり強化命じられるが、実際に取り締まり担当した賀国光寇英傑配下人間だった。 その頃、南からは中国国民党北伐北から張作霖奉天派迫り呉佩孚の討賊聯軍は次第追い詰められつつあった。靳雲鶚呉佩孚馮玉祥手を組み張作霖対抗することを提言したが、逆に張作霖手を組みたかった呉佩孚却下した靳雲鶚国民軍出身の田維勤とともに保定国民軍門致中蕭振瀛接触、また張連棻(中国語版を介して南京孫伝芳と、潘毅を介して山東省李景林内通し打倒閻錫山張作霖計画進めていた。しかし田維勤と斉燮元密告され、5月31日視察のため赴いた呉佩孚より閻錫山同席していた石家荘軍事会議の場で突如両職の解任通達された。後任省長には熊炳琦(中国語版)が就任した6月樊鍾秀登封挙兵すると、主として寇英傑鎮圧あたったが、靳雲鶚7月18日呉佩孚の命で直隷保定駐屯していた自身部隊を省内に戻した

※この「鄂豫戦争」の解説は、「靳雲鶚」の解説の一部です。
「鄂豫戦争」を含む「靳雲鶚」の記事については、「靳雲鶚」の概要を参照ください。

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