北京政府から国民政府へとは? わかりやすく解説

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北京政府から国民政府へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 06:18 UTC 版)

金問泗」の記事における「北京政府から国民政府へ」の解説

1910年宣統2年)、私立復旦公学卒業し1915年民国4年)、省立天津北洋大学法学士取得した翌年夏、北京政府外交官領事館試験受験し合格後外交部にて勤務した1917年民国6年)夏、駐米公使館派遣され同時にコロンビア大学国際公法外交学を学んだ1919年民国8年1月パリ講和会議中国代表団で副秘書をつとめる。同年コロンビア大学法学修士学位取得した1920年民国9年)冬、駐英大使館に設置され国際連盟中国代表弁事処に転任し秘書専門委員に任ぜられた。翌年11月ワシントン会議代表団秘書をつとめる。1922年民国11年2月帰国し北京政府財政部関税問題専門的に取り扱う。まもなく外交部復帰し通商司榷税科科長などをつとめた以後、督弁中俄会議事宜関税特別会委員会議案処幇弁、外交部議事処幇弁、外交部検事などを歴任している。 1927年民国16年7月上海特別市政府専任参議に任ぜられ、以後国民政府転じることになる。翌年3月外交部第1司司長に任ぜられ、翌月、駐江蘇交渉員となった1929年民国18年2月、駐オランダ公使に任ぜられたが、実際に着任していない。1930年民国19年3月、農鉱部参事となり、翌年5月、同部の実業部への改組とともに上海農産物検験所所長も兼ねている同年12月外交部常務次長代理となったが、まもなく辞任し、いったん上海引退する

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北京政府から国民政府へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 07:37 UTC 版)

龐炳勲」の記事における「北京政府から国民政府へ」の解説

父は秀才家柄で、龐炳勲も当初学問志した。しかし父の死に伴い学問放棄して商業を営む。1899年光緒25年)、北洋第3砲兵隊加入し教官孫岳師弟関係持った東北測絵学堂卒業後、孫岳紹介により、中国同盟会加入した1911年宣統3年)、灤州起義に参加した。しかし失敗して龐も罷免され、再び商人となる。 1918年民国7年)、保定駐屯していた孫岳再会し、再びその配下として起用された。以後、孫の下で順調に昇進していく。1924年民国13年10月馮玉祥による北京政変首都革命)が発生で、孫岳国民軍加入すると、龐炳勲は国民軍第2混成旅旅長に起用された。 しかし1926年民国15年4月国民軍北方各派との戦いで不利に陥ると、龐炳勲は直隷派呉佩孚投降し、第12混成旅旅長に任命される同年冬、呉が国民政府北伐軍敗北すると、河南保衛軍の靳頼り河南保衛軍第11師長となった1927年民国16年3月河南保衛軍第3軍軍長昇進する。まもなく靳が武漢国民政府に降ると、龐もこれに従い国民革命軍暫編第5軍軍長任命された。同年5月馮玉祥率い国民革命軍第2集団軍の東路軍第20軍軍長となり、北伐でも軍功をあげている。

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北京政府から国民政府へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 14:57 UTC 版)

劉鎮華」の記事における「北京政府から国民政府へ」の解説

同年秋、劉鎮華閻錫山仲介経て張作霖呉佩孚連合の下に復帰する1926年民国15年1月呉佩孚の討賊聯軍は胡景翼の後を継いだ岳維峻治め河南省進攻決意鄂豫戦争)、東から靳雲鶚第1軍、南から寇英傑の第2路軍が侵攻開始した。劉は「討賊聯軍陝甘総司令」として西から進攻担当し洛陽の田玉潔の第3師、李虎臣の第10師、そして鄭州から逃れてきた岳維峻第2軍本隊攻撃し、これを撃破した河南省掌握後、靳雲鶚寇英傑は省内利権巡って対立したが、それには加わらず1926年4月陝西省逃げ込んだ第2軍第3軍残部追い潼関から河南省出た。劉は鎮嵩軍を復活させ、国民軍から寝返った麻振武、緱張保らを糾合し、李虎臣と楊虎城率い国民軍7万人篭る西安城を10万人もの圧倒的な兵力包囲したが、なかなか攻め落とすことができなかった。9月五原誓師を行った馮玉祥于右任率い国民軍本隊反撃転じる翌月、劉は陝西国民軍綏遠から出撃してきた国民軍本隊挟撃され大敗した敗走した劉は劉汝明の第10師に追われていたが、呉佩孚の命を受けた田維勤の助け受けて12月河南省逃げ戻り陝西省ほど近い陝州にて部隊立て直し図った。しかし、劉汝明近隣閿郷県入り込んでおり、翌1月3日には陝州にも国民革命軍第5路の3個支隊9000人が相次いで出現、これと衝突した。更に、2月8日安国軍(中国語版大元帥張作霖呉佩孚武漢奪還できないことにしびれを切らし、「援呉」を名目として河南省進出宣言韓麟春張学良率い第3、4方面軍、および張宗昌率いる直聯軍も迫りつつあった。呉佩孚奉天派との徹底抗戦主張する靳雲鶚に後を任せて下野した。靳が河南省保衛軍を組織すると、張治公は洛陽拠点として西路総指揮に任ぜられ、劉も2月19日、靳の奉天軍閥討伐声明名を連ねているが、同時奉天派寝返っていたともいわれる3月になると、劉の圧政に耐えかねた民衆陝州洛陽暴動起こし、その鎮圧追われた。更に4月24日部下逸才、姜明玉如、徐朗軒らは国民聯軍への従属表明した直隷派奉天派敗北濃厚見た劉鎮華は、かつて自身裏切った張鈁や敵対した于右任説得を受け、5月に自ら閿郷に赴いた馮玉祥従属表明した。劉の軍は国民革命軍第2集団東路軍として改編され、そのまま河南省への北伐参加張発奎率い第1集団軍第4方面軍第1縦隊とともに上蔡県追い詰められていた靳雲鶚救出した6月10日鄭州会議以降第8方面軍改編され、開封以東柳河柳村駐屯6月13日には、河南省政府委員にも名を連ねた。 こうして馮玉祥のもと易幟果たした河南省だったが、既存の旧直隷派各将と馮との間には対立続き更迭され靳雲鶚9月郾城反乱起こしていた。その頃、劉率い第8方面軍は第2路として豫東の考城展開し、第1路の鹿鍾麟第3路の孫連仲とともに聯軍と対峙していたが、10月13日には姜明玉発魁、憨玉珍の3個師が方面軍副司令官の鄭金声拉致して張宗昌離反した動揺広まった第2路は17日考城包囲された。11月3日援軍によって解囲されたが、16日劉志陸(中国語版)の直聯軍右路に撃破され、考城奪われた。24日馮玉祥は6個路の大軍によって反撃開始し26日劉志陸を撃退した1928年春、第8方面軍引き続き奉天派北伐参加河北大名之役に参加した京津制圧後、7月15日灤河会戦参加、直聯軍を撃破した北伐終了後1929年5月22日、劉は第11路軍総指揮として閻錫山指揮となったが、馮玉祥閻錫山蔣介石対立するうになると、劉はこれに巻き込まれることを嫌い、日本ドイツへ外遊した。 劉鎮華外遊している間に、第11路軍総指揮引き継いだ弟の劉茂恩蔣介石寝返っている。そのため1930年民国19年)に帰国した劉鎮華また、蔣介石支持転じた11月3日、劉は豫陝晋辺区綏靖督弁として新郷駐屯し、閻に備えた1932年民国21年)の第4次中国共産党掃討作戦では、劉鎮華は豫鄂陝辺区綏靖督弁として南陽駐屯した。さらに、楊永泰新政学派接近したことで1933年民国22年5月には、安徽省政府主席任命され、まもなく豫鄂皖辺区剿匪総司令兼任している。翌1934年、自ら戦線に赴き、皖南屯渓にて紅軍北上抗日先遣隊瓦解貢献したその後山陽への追撃劉茂恩任せて安慶戻った。 しかし1936年民国25年10月楊永泰暗殺により劉の権威失墜する同月、劉は精神失調来たしたため、しばらく後に軍事政治の各役職退いた1949年民国38年)、家族とともに台湾移った1955年11月18日劉鎮華台北にて死去享年73

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北京政府から国民政府へ

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沈覲鼎」の記事における「北京政府から国民政府へ」の解説

日本留学し東京帝国大学農学部卒業した続いてアメリカに赴き、ジョージタウン大学外交学を学んだ1920年民国9年)に帰国し北京政府外交部秘書となる。1922年民国11年)のワシントン会議では代表団付となり、1925年民国14年)には特別関税会議籌備処副長外交部情報副長歴任した1927年民国16年)、特命全権公使待遇となっている。 北京政府崩壊後国民政府転じ外交部条約委員会委員となる。1928年民国17年11月考試院簡任(上席秘書となり、その翌年11月には同院参事に昇格したまた、南京中央大学助教授務めている。 1932年民国21年1月沈覲鼎外交部亜洲司司兼国連盟中国代表専門委員に任ぜられた。翌年4月帰国し華北日本軍との交渉携わっている。1934年民国23年10月初代パナマ特命全権公使任命された。1941年には、コスタリカ・エルサルバドル・ホンジュラスの各国公使兼任している。1942年4月に任を解かれアメリカ軍大学講座開いた

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