北京政府から国民政府へ
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1910年(宣統2年)、私立復旦公学を卒業し、1915年(民国4年)、省立天津北洋大学で法学士を取得した。翌年夏、北京政府で外交官・領事館試験を受験し、合格後は外交部にて勤務した。1917年(民国6年)夏、駐米公使館に派遣され、同時にコロンビア大学で国際公法と外交学を学んだ。1919年(民国8年)1月、パリ講和会議の中国代表団で副秘書をつとめる。同年、コロンビア大学で法学修士の学位を取得した。 1920年(民国9年)冬、駐英大使館に設置された国際連盟中国代表弁事処に転任し、秘書・専門委員に任ぜられた。翌年11月、ワシントン会議代表団秘書をつとめる。1922年(民国11年)2月に帰国し、北京政府の財政部で関税問題を専門的に取り扱う。まもなく外交部に復帰し、通商司榷税科科長などをつとめた。以後、督弁中俄会議事宜、関税特別会議委員会議案処幇弁、外交部議事処幇弁、外交部検事などを歴任している。 1927年(民国16年)7月、上海特別市政府専任参議に任ぜられ、以後、国民政府に転じることになる。翌年3月、外交部第1司司長に任ぜられ、翌月、駐江蘇交渉員となった。1929年(民国18年)2月、駐オランダ公使に任ぜられたが、実際には着任していない。1930年(民国19年)3月、農鉱部参事となり、翌年5月、同部の実業部への改組とともに上海農産物検験所所長も兼ねている。同年12月に外交部常務次長代理となったが、まもなく辞任し、いったん上海に引退する。
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北京政府から国民政府へ
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父は秀才の家柄で、龐炳勲も当初は学問を志した。しかし父の死に伴い、学問を放棄して商業を営む。1899年(光緒25年)、北洋第3鎮砲兵隊に加入し、教官の孫岳と師弟関係を持った。東北測絵学堂卒業後、孫岳の紹介により、中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)、灤州起義に参加した。しかし失敗して龐も罷免され、再び商人となる。 1918年(民国7年)、保定に駐屯していた孫岳と再会し、再びその配下として起用された。以後、孫の下で順調に昇進していく。1924年(民国13年)10月の馮玉祥による北京政変(首都革命)が発生で、孫岳が国民軍に加入すると、龐炳勲は国民軍第2混成旅旅長に起用された。 しかし1926年(民国15年)4月、国民軍が北方各派との戦いで不利に陥ると、龐炳勲は直隷派の呉佩孚に投降し、第12混成旅旅長に任命される。同年冬、呉が国民政府の北伐軍に敗北すると、河南保衛軍の靳雲鶚を頼り、河南保衛軍第11師師長となった。1927年(民国16年)3月、河南保衛軍第3軍軍長に昇進する。まもなく靳が武漢国民政府に降ると、龐もこれに従い、国民革命軍暫編第5軍軍長に任命された。同年5月、馮玉祥率いる国民革命軍第2集団軍の東路軍第20軍軍長となり、北伐でも軍功をあげている。
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北京政府から国民政府へ
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同年秋、劉鎮華は閻錫山の仲介を経て張作霖・呉佩孚の連合の下に復帰する。1926年(民国15年)1月、呉佩孚の討賊聯軍は胡景翼の後を継いだ岳維峻が治める河南省進攻を決意(鄂豫戦争)、東から靳雲鶚の第1軍、南から寇英傑の第2路軍が侵攻を開始した。劉は「討賊聯軍陝甘総司令」として西からの進攻を担当し、洛陽の田玉潔の第3師、李虎臣の第10師、そして鄭州から逃れてきた岳維峻の第2軍本隊を攻撃し、これを撃破した。 河南省掌握後、靳雲鶚・寇英傑は省内利権を巡って対立したが、それには加わらず、1926年4月、陝西省に逃げ込んだ第2軍・第3軍残部を追い潼関から河南省を出た。劉は鎮嵩軍を復活させ、国民軍から寝返った麻振武、緱張保らを糾合し、李虎臣と楊虎城ら率いる国民軍7万人が篭る西安城を10万人もの圧倒的な兵力で包囲したが、なかなか攻め落とすことができなかった。9月、五原誓師を行った馮玉祥と于右任率いる国民軍本隊が反撃に転じる。翌月、劉は陝西の国民軍と綏遠から出撃してきた国民軍本隊に挟撃されて大敗した。 敗走した劉は劉汝明の第10師に追われていたが、呉佩孚の命を受けた田維勤の助けを受けて12月に河南省に逃げ戻り、陝西省にほど近い陝州にて部隊の立て直しを図った。しかし、劉汝明も近隣の閿郷県に入り込んでおり、翌1月3日には陝州にも国民革命軍第5路の3個支隊9000人が相次いで出現、これと衝突した。更に、2月8日、安国軍(中国語版)大元帥・張作霖は呉佩孚が武漢を奪還できないことにしびれを切らし、「援呉」を名目として河南省進出を宣言、韓麟春・張学良率いる第3、4方面軍、および張宗昌率いる直魯聯軍も迫りつつあった。呉佩孚は奉天派との徹底抗戦を主張する靳雲鶚に後を任せて下野した。靳が河南省保衛軍を組織すると、張治公は洛陽を拠点として西路総指揮に任ぜられ、劉も2月19日、靳の奉天軍閥討伐声明に名を連ねているが、同時期奉天派に寝返っていたともいわれる。3月になると、劉の圧政に耐えかねた民衆が陝州や洛陽で暴動を起こし、その鎮圧に追われた。更に4月24日、部下の万逸才、姜明玉、李万如、徐朗軒らは国民聯軍への従属を表明した。直隷派も奉天派も敗北濃厚と見た劉鎮華は、かつて自身が裏切った張鈁や敵対した于右任の説得を受け、5月に自ら閿郷に赴いた馮玉祥に従属を表明した。劉の軍は国民革命軍第2集団軍東路軍として改編され、そのまま河南省への北伐に参加。張発奎率いる第1集団軍第4方面軍第1縦隊とともに上蔡県に追い詰められていた靳雲鶚を救出した。6月10日の鄭州会議以降は第8方面軍に改編され、開封以東の柳河、柳村に駐屯。6月13日には、河南省政府委員にも名を連ねた。 こうして馮玉祥のもと易幟を果たした河南省だったが、既存の旧直隷派各将と馮との間には対立が続き、更迭された靳雲鶚は9月に郾城で反乱を起こしていた。その頃、劉率いる第8方面軍は第2路として豫東の考城に展開し、第1路の鹿鍾麟、第3路の孫連仲とともに直魯聯軍と対峙していたが、10月13日には姜明玉、梅発魁、憨玉珍の3個師が方面軍副司令官の鄭金声を拉致して張宗昌へ離反した。動揺が広まった第2路は17日、考城を包囲された。11月3日に援軍によって解囲されたが、16日、劉志陸(中国語版)の直魯聯軍右路に撃破され、考城を奪われた。24日、馮玉祥は6個路の大軍によって反撃を開始し、26日に劉志陸を撃退した。 1928年春、第8方面軍は引き続き対奉天派の北伐に参加、河北で大名之役に参加した。京津制圧後、7月15日灤河会戦に参加、直魯聯軍を撃破した。 北伐終了後の1929年5月22日、劉は第11路軍総指揮として閻錫山の指揮下となったが、馮玉祥や閻錫山が蔣介石と対立するようになると、劉はこれに巻き込まれることを嫌い、日本、ドイツへ外遊した。 劉鎮華が外遊している間に、第11路軍総指揮を引き継いだ弟の劉茂恩は蔣介石に寝返っている。そのため1930年(民国19年)に帰国した劉鎮華もまた、蔣介石支持に転じた。11月3日、劉は豫陝晋辺区綏靖督弁として新郷に駐屯し、閻に備えた。 1932年(民国21年)の第4次中国共産党掃討作戦では、劉鎮華は豫鄂陝辺区綏靖督弁として南陽に駐屯した。さらに、楊永泰の新政学派に接近したことで1933年(民国22年)5月には、安徽省政府主席に任命され、まもなく豫鄂皖辺区剿匪総司令も兼任している。翌1934年、自ら戦線に赴き、皖南屯渓にて紅軍北上抗日先遣隊の瓦解に貢献した。その後、山陽への追撃は劉茂恩に任せて安慶に戻った。 しかし1936年(民国25年)10月、楊永泰の暗殺により劉の権威も失墜する。同月、劉は精神に失調を来たしたため、しばらく後に軍事・政治の各役職を退いた。1949年(民国38年)、家族とともに台湾に移った。 1955年11月18日、劉鎮華は台北にて死去。享年73。
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北京政府から国民政府へ
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日本に留学し、東京帝国大学農学部を卒業した。続いてアメリカに赴き、ジョージタウン大学で外交学を学んだ。1920年(民国9年)に帰国し、北京政府外交部秘書となる。1922年(民国11年)のワシントン会議では代表団付となり、1925年(民国14年)には特別関税会議籌備処副長、外交部情報処副長を歴任した。1927年(民国16年)、特命全権公使待遇となっている。 北京政府崩壊後は国民政府に転じ、外交部条約委員会委員となる。1928年(民国17年)11月、考試院簡任(上席)秘書となり、その翌年11月には同院参事に昇格した。また、南京の中央大学で助教授も務めている。 1932年(民国21年)1月、沈覲鼎は外交部亜洲司司長兼国際連盟中国代表団専門委員に任ぜられた。翌年4月帰国し、華北で日本軍との交渉に携わっている。1934年(民国23年)10月、初代駐パナマ特命全権公使に任命された。1941年には、コスタリカ・エルサルバドル・ホンジュラスの各国公使も兼任している。1942年4月に任を解かれ、アメリカ軍の大学で講座を開いた。
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