北京政府での事跡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 北京政府での事跡の意味・解説 

北京政府での事跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 03:11 UTC 版)

薩鎮氷」の記事における「北京政府での事跡」の解説

1912年民国元年2月清朝滅亡後革命の際の姿勢もあって、薩鎮氷呉淞商船学校校長地位しか与えられなかった。しかし、薩の経歴資質はやはり重く、同年12月には海軍上将位を授与された。1913年民国2年8月、督弁淞滬水陸警察事宜を命ぜられる。1914年民国3年5月陸海軍大元帥統率弁事処弁事員に任命された。同年8月には上海兵工総弁兼任している。1915年民国4年)、上海陳其美らの革命派蜂起すると、薩の海軍素早くこれに攻撃加え敗退させた。 護国戦争後の1916年民国5年8月薩鎮氷は粤閩巡閲使に任命され北京政府側の竜済光南方政府側の李烈鈞争い調停した翌年6月、薩は黎元洪により海軍総長任命された。しかし、張勲復辟でもそのまま海軍尚書となったため、復辟失敗後は薩も下野追い込まれている。しかし、まもなく段祺瑞の下で海軍総長任命され劉冠雄要請により、海疆巡閲使として復帰した1918年民国7年6月薩鎮氷福建督軍李厚基救援のために海軍率いて福建向かい同年9月福建清郷督弁に任命された。同年12月海軍総長任命され北京戻り、さらに民国9年1920年5月から3か月間だけ代理国務総理つとめている。1921年民国10年5月海軍総長辞職した民国11年1922年4月第1次奉直戦争では、薩は直隷派として海軍説得し奉天派撃破する上で貢献した同年5月、薩は将軍府粛威上将軍任命された。 同年10月福建督軍李厚基が、孫文の命を受けた許崇智攻撃受けて危機陥った北京政府薩鎮氷派遣し罷免した上で福建省長に任命した一方孫文も、林森福建省長に擁立し南北双方の省長が鼎立する情勢となった。しかし、許が陳炯明討伐のため福建離れた間隙をつき、1923年民国12年2月、薩は「閩人治閩(福建省人による福建統治)」を唱え支持幅広く集めた。こうして薩は、駆逐して省内の実権掌握し以後3年余りにわたって薩が福建統治した1926年民国15年12月国民革命軍福建入りに伴い、薩は下野した

※この「北京政府での事跡」の解説は、「薩鎮氷」の解説の一部です。
「北京政府での事跡」を含む「薩鎮氷」の記事については、「薩鎮氷」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「北京政府での事跡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北京政府での事跡」の関連用語

1
8% |||||

北京政府での事跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北京政府での事跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの薩鎮氷 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS