北京政府での事跡
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1912年(民国元年)2月の清朝滅亡後、革命の際の姿勢もあって、薩鎮氷は呉淞商船学校校長の地位しか与えられなかった。しかし、薩の経歴・資質はやはり重く、同年12月には海軍上将位を授与された。1913年(民国2年)8月、督弁淞滬水陸警察事宜を命ぜられる。1914年(民国3年)5月、陸海軍大元帥統率弁事処弁事員に任命された。同年8月には上海兵工廠総弁も兼任している。1915年(民国4年)、上海で陳其美らの革命派が蜂起すると、薩の海軍は素早くこれに攻撃を加え、敗退させた。 護国戦争後の1916年(民国5年)8月、薩鎮氷は粤閩巡閲使に任命され、北京政府側の竜済光と南方政府側の李烈鈞の争いを調停した。翌年6月、薩は黎元洪により海軍総長に任命された。しかし、張勲復辟でもそのまま海軍部尚書となったため、復辟失敗後は薩も下野に追い込まれている。しかし、まもなく段祺瑞の下で海軍総長に任命された劉冠雄の要請により、海疆巡閲使として復帰した。 1918年(民国7年)6月、薩鎮氷は福建督軍李厚基の救援のために海軍を率いて福建に向かい、同年9月、福建清郷督弁に任命された。同年12月、海軍総長に任命されて北京に戻り、さらに民国9年(1920年)5月から3か月間だけ代理国務総理をつとめている。1921年(民国10年)5月、海軍総長を辞職した。民国11年(1922年)4月の第1次奉直戦争では、薩は直隷派として海軍を説得し、奉天派を撃破する上で貢献した。同年5月、薩は将軍府粛威上将軍に任命された。 同年10月、福建督軍李厚基が、孫文の命を受けた許崇智の攻撃を受けて危機に陥った。北京政府は薩鎮氷を派遣し、李を罷免した上で福建省長に任命した。一方の孫文も、林森を福建省長に擁立し、南北双方の省長が鼎立する情勢となった。しかし、許が陳炯明討伐のため福建を離れた間隙をつき、1923年(民国12年)2月、薩は「閩人治閩(福建省人による福建統治)」を唱え、支持を幅広く集めた。こうして薩は、林を駆逐して省内の実権を掌握し、以後3年余りにわたって薩が福建を統治した。1926年(民国15年)12月、国民革命軍の福建入りに伴い、薩は下野した。
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