北京師範大学校長に
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袁世凱死後の1916年(民国5年)7月、范源濂は段祺瑞内閣の教育総長に再任された。翌年1月には内務総長を兼任代理している。府院の争いでは段を支持して黎元洪と対立し、対ドイツ参戦問題では参戦支持を主張している。しかし6月、范は段の命により、議会を襲撃した公民団の説得に赴いたものの失敗したため、責任をとる形で休職する。張勲復辟の解決後に復帰したが、11月に辞職し、欧州へ教育視察に赴いた。 1920年(民国9年)の安直戦争後も、范源濂は靳雲鵬内閣の教育総長として起用され、義務教育の整備に取り組んだ。翌年12月に教育総長を辞職し、欧米各国の教育視察に再び赴く。1923年(民国12年)7月に帰国し、北京師範大学校長に就任して、教育者養成事業に取り組んだ。翌年9月に校長を辞したものの、中華教育基金会会長等をつとめ、引き続き教育事業に携わった。 1927年(民国16年)12月23日、天津にて病没。享年54。
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