北京政府の軍服とは? わかりやすく解説

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北京政府の軍服(1912~1928年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 01:07 UTC 版)

軍服 (中華民国)」の記事における「北京政府の軍服(1912~1928年)」の解説

陸軍官佐礼服制』『陸軍常服制』(1912年10月24日制定辛亥革命後1912年民国元年5月12日中華民国政府北京陸軍部設置10月24日新たな軍服制定した常服形状および階級章南京臨時政府同様に日本陸軍明治39年軍衣酷似しているが、生地の色・ボタンの数はともに清朝時代のものを踏襲している。また、礼装などドイツ色の強かった清代とは対照的にフランス式要素強くなっている。 常服の上衣は日本四五式同様、胸部物入は雨蓋付き腰部物入は雨蓋無しだが、胸部物入はボタン付かないまた、上衣の袖および袴の外側には赤のパイピング一本入る。 襟章五角形で、将官金色。襟の兵科章には、隊号章として下士官兵左側アラビア数字右側ローマ数字将校は両襟ともローマ数字表記され金属章を付ける。また、兵種属する者は隊号章とともにその兵種頭文字漢字表記した銅製の襟部徽章を、参謀2つの棒を交互に組み合わせた意匠の襟部徽章左側に付けた。 階級章は、長さ10センチ、幅3センチで、下士官兵は赤の下地将校白地金線軍帽天井喰出に赤のパイピング一本入る。鉢巻軍衣地質同様だが、将官鉢巻全体金色パイピング入り顎紐金色となる。帽章五色旗モチーフとした黄・黒・白・青・赤で塗り分けられていたが袁世凱政権前後日本陸軍同様の五芒星へと変更された。中華帝国崩壊後、再び五色星に喉された。 革命以前被服廠は各地分散されていた。当初北洋政府軍は被服廠というものを持っておらず、民間への大量発注という形を取っていたが、これらの軍需工場北京集中させ、またドイツ日本から大量製造機器を購入し軍需工場刷新図った。まず、1912年9月、駐上海陸軍被服倉庫設立10月清代被服廠を解体移転させて北京市内の米倉庫を接収し11月新たに被服廠を設立。また朝陽区老君堂と東城区灯市口にあった被服倉庫合併し被服廠に併設させた。やや遅れて1914年民国3年4月武昌南湖旧軍の制革廠を受領1915年民国4年11月海淀区清河鎮にある旧軍官営企業だった溥利呢革公司受領し呢革廠を設置同年陸軍被服装具検査規則制定され、こうして軍服製造システム整えられた。 ベルト第一次世界大戦ごろより欧州からサム・ブラウン・ベルト観戦武官軍事顧問経由して持ち込まれたと思われ、やがて全土普及したその後北京政府分裂し軍閥割拠時代へと突入したボタンポケット形状など地域によって細部の差はあるが、全体的に似たり寄ったり大きな変化はなかった。 ただし、奉天閥は1924年より制帽鉢巻をはじめ、袖や袴のパイピング一切配したシンプルなデザインとなった帽子はみ出し狭くなり、軍衣の胸と腰の物入れ貼り付け型が基本となる。同様の変化山西派でも見受けられるまた、国民軍孫伝芳張宗昌連合軍(直連軍)では簡略化させ、階級のついた中折れ帽被った漁夫兵」と呼ばれる独自の軍装現れた。 やがて北伐完了により国民政府折襟軍服に取って代わられていくが、満州国陸軍がこれに酷似し軍装継承していくことになる。 大元帥独自の軍装。襟全体金色襟章がなされ、また肩章ロシアとなっている。袁世凱 訓練を行う初期北洋陸軍分列行進動作フランス式準じている。 護国戦争における護国軍側指揮官中華帝国時代帽章。(段祺瑞1913年6月段祺瑞別影。上衣ポケット上下ともに雨蓋なし。(1917年襟章変更後大将李烈鈞 襟章変更後大将李烈鈞 シベリア出兵における各国指揮官ら。大将(2列目左より4番目)および少将前列右より2番目)は襟に参謀であることを示す徽章付けている(1918年憲兵将校(1922年)。上衣ポケット胸部腰部ともに雨蓋付きとなっている 直隷派大将馮国璋1919年 直隷派大将。袴のパイピング確認できる呉佩孚1921年 安徽派中将徐樹錚 安徽派中将張懐芝 雲南派少将胡瑛 雲南派少将朱徳 旧広西派中将上衣ポケット上下ともに雨蓋なし。洪兆麟(中国語版楊森 浙江督署参謀たる上校。胸に中国陸大卒業徽章確認できる。(潘国綱1914年前後軍官候補生たる工兵中士鄧演達 張之江 1922年ポケット後期タイプ1925年 ダブルの上衣。馮国璋 詳細は「軍服 (満州国)」を参照 奉天閥の中将郭松齢1924年奉天閥の少将楊宇霆1924年奉天閥の中将湯玉麟 姜登選 奉天閥の陸軍軍人ら。上着が外ポケットになっている奉天閥の中将万福麟 東北陸軍耕武堂学生たる中士呂正操 奉天閥の陸軍軍人ら。防寒帽被っている者もいる。 奉天派張宗昌の直軍兵士ら。 観測軍官 奉天閥の砲兵張宗昌軍の兵士ら。全員モーゼルC96武装している。 満州国閣僚軍人当時日本陸軍軍服外見はほぼ同一だが、左端軍人の上衣腰ポケットボタンがある。

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