北京政府の軍服(1912~1928年)
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『陸軍官佐礼服制』『陸軍常服制』(1912年10月24日制定) 辛亥革命後の1912年(民国元年)5月12日、中華民国政府は北京に陸軍部を設置、10月24日に新たな軍服を制定した。常服の形状および階級章は南京臨時政府同様に日本陸軍の明治39年式軍衣に酷似しているが、生地の色・ボタンの数はともに清朝時代のものを踏襲している。また、礼装などドイツ色の強かった清代とは対照的にフランス式要素が強くなっている。 常服の上衣は日本の四五式同様、胸部物入は雨蓋付き、腰部物入は雨蓋無しだが、胸部物入はボタンが付かない。また、上衣の袖および袴の外側には赤のパイピングが一本入る。 襟章は五角形で、将官は金色。襟の兵科章には、隊号章として下士官兵は左側がアラビア数字、右側がローマ数字、将校は両襟ともローマ数字で表記された金属章を付ける。また、各兵種に属する者は隊号章とともにその兵種の頭文字を漢字で表記した銅製の襟部徽章を、参謀は2つの棒を交互に組み合わせた意匠の襟部徽章を左側に付けた。 階級章は、長さ10センチ、幅3センチで、下士官兵は赤の下地、将校は白地に金線。 軍帽は天井喰出に赤のパイピングが一本入る。鉢巻は軍衣の地質と同様だが、将官は鉢巻全体に金色のパイピングが入り、顎紐も金色となる。帽章は五色旗をモチーフとした黄・黒・白・青・赤で塗り分けられていたが袁世凱政権の前後に日本陸軍と同様の五芒星へと変更された。中華帝国崩壊後、再び五色星に喉された。 革命以前、被服廠は各地に分散されていた。当初、北洋政府軍は被服廠というものを持っておらず、民間への大量発注という形を取っていたが、これらの軍需工場を北京に集中させ、またドイツや日本から大量の製造機器を購入し、軍需工場の刷新を図った。まず、1912年9月、駐上海陸軍被服倉庫が設立。10月、清代の被服廠を解体・移転させて北京市内の米倉庫を接収し、11月、新たに被服廠を設立。また朝陽区老君堂と東城区灯市口にあった被服倉庫を合併し被服廠に併設させた。やや遅れて1914年(民国3年)4月に武昌南湖の旧軍の制革廠を受領、1915年(民国4年)11月、海淀区清河鎮にある旧軍の官営企業だった溥利呢革公司を受領し呢革廠を設置。同年、陸軍被服装具検査規則が制定され、こうして軍服の製造システムが整えられた。 ベルトは第一次世界大戦ごろより欧州からサム・ブラウン・ベルトが観戦武官や軍事顧問を経由して持ち込まれたと思われ、やがて全土に普及した。 その後、北京政府は分裂し、軍閥割拠の時代へと突入した。ボタンやポケットの形状など、地域によって細部の差はあるが、全体的に似たり寄ったりで大きな変化はなかった。 ただし、奉天閥は1924年より制帽の鉢巻をはじめ、袖や袴のパイピングを一切配したシンプルなデザインとなった。帽子のはみ出しは狭くなり、軍衣の胸と腰の物入れは貼り付け型が基本となる。同様の変化は山西派でも見受けられる。 また、国民軍や孫伝芳・張宗昌連合軍(直魯連軍)では簡略化させ、階級のついた中折れ帽を被った「漁夫兵」と呼ばれる独自の軍装が現れた。 やがて北伐完了により国民政府の折襟の軍服に取って代わられていくが、満州国陸軍がこれに酷似した軍装を継承していくことになる。 大元帥独自の軍装。襟全体に金色の襟章がなされ、また肩章がロシア式となっている。袁世凱 訓練を行う初期の北洋陸軍。分列行進の動作はフランス式に準じている。 護国戦争における護国軍側指揮官ら 中華帝国時代の帽章。(段祺瑞、1913年6月) 段祺瑞別影。上衣のポケットは上下ともに雨蓋なし。(1917年) 襟章変更後の大将。李烈鈞 襟章変更後の大将。李烈鈞 シベリア出兵における各国軍指揮官ら。大将(2列目左より4番目)および少将(前列右より2番目)は襟に参謀であることを示す徽章を付けている(1918年) 憲兵将校(1922年)。上衣ポケットが胸部・腰部ともに雨蓋付きとなっている 直隷派の大将。馮国璋、1919年 直隷派の大将。袴のパイピングが確認できる。呉佩孚、1921年 安徽派の中将。徐樹錚 安徽派の中将。張懐芝 雲南派の少将。胡瑛 雲南派の少将。朱徳 旧広西派の中将。上衣のポケットは上下ともに雨蓋なし。洪兆麟(中国語版) 楊森 浙江督署参謀たる上校。胸に中国陸大卒業徽章が確認できる。(潘国綱、1914年前後) 軍官候補生たる工兵中士。鄧演達 張之江 1922年 外ポケットの後期のタイプ。1925年 ダブルの上衣。馮国璋 詳細は「軍服 (満州国)」を参照 奉天閥の中将。郭松齢(1924年) 奉天閥の少将。楊宇霆(1924年) 奉天閥の中将。湯玉麟 姜登選 奉天閥の陸軍軍人ら。上着が外ポケットになっている。 奉天閥の中将。万福麟 東北陸軍耕武堂学生たる中士。呂正操 奉天閥の陸軍軍人ら。防寒帽を被っている者もいる。 奉天派・張宗昌の直魯軍兵士ら。 観測軍官 奉天閥の砲兵。 張宗昌軍の兵士ら。全員モーゼルC96で武装している。 満州国閣僚の軍人。当時の日本陸軍軍服に外見はほぼ同一だが、左端軍人の上衣腰ポケット蓋にボタンがある。
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