北京政府の重鎮
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1911年(宣統3年)10月、武昌起義が勃発し、辛亥革命が開始された。一時失脚していた袁世凱が内閣総理として国政に復帰すると、王士珍も陸軍大臣として任用された。しかし、王は清朝への忠誠心が強く、清朝が滅亡すると王は職を退いた。1914年(民国3年)、王は陸軍上将銜を授与され、北京政府に加わる。5月には陸海軍大元帥統率弁事処弁事員(坐弁)、模範団籌備処処長などに就任した。1915年(民国4年)8月、段祺瑞の後任として陸軍総長に就任している。1916年(民国5年)4月23日、参謀部総長に任命され、6月6日の袁世凱死後もその地位にあった。 府院の争いでは、王士珍は黎元洪を支持し、対ドイツ宣戦問題でも宣戦反対の立場をとった。1917年(民国6年)5月、黎が段祺瑞を国務総理から罷免すると、王は京畿警備総司令に任命された。李経羲内閣が成立すると、陸軍総長兼参謀部総長となっている。7月、張勲が復辟を行うと、王はこれに参与し、内閣議政大臣、参謀部大臣などに任命された。復辟失敗後は、混乱の責任を取ろうと王は故郷に隠居してしまう。しかし、北京における秩序の維持に貢献したことなどを理由に、段祺瑞から参謀部総長への復帰を許された。 まもなく、段祺瑞率いる安徽派と馮国璋率いる直隷派との間で、南方政府(護法軍政府)への方策をめぐり「武力統一」(安徽派)か「和平統一」(直隷派)かの争いが起きる。11月15日、段が国務総理を辞任すると、馮の支持により、30日に王士珍が署理内閣総理となった。しかしその後、安徽派は奉天派と結ぶなどして巻き返し、さらに王内閣打倒を図る。1918年(民国7年)2月20日、王は病気を口実に辞任した。
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