北京政府期の活動
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北京学治館で学び、卒業後は奉天省に戻り、清理財政局科員、度支司科長、軍械製造廠長、被服廠副廠長を歴任した。中華民国が成立した1912年(民国元年)、奉天都督府秘書に任ぜられる。翌年1月、奉天省南路観察使となった。1914年(民国3年)2月、奉天営口交渉員を兼ね、3月、遼瀋道道尹となる。1915年(民国4年)3月、署理吉林浜江道道尹に転じ、翌年4月、奉天巡按使代理に昇進した。5月、奉天省財政庁庁長となり、翌1917年(民国6年)9月までつとめる。 同年12月、黒竜江省に異動し、竜江道道尹となる。1919年(民国8年)7月、黒竜江督軍が鮑貴卿から孫烈臣に交代するまでの暫時ではあるが、督軍兼省長護理をつとめた。1920年(民国9年)、黒竜江省財政庁長に起用される。1921年5月、吉林督軍に異動した孫に随従して、王も吉林に異動し、財政庁長となる。7月、吉林政務庁長兼官銀号監理に任ぜられた。翌年11月、吉林督軍署秘書長となり、1924年(民国13年)、吉林省省長に昇進している。翌年2月、張作霖により、東三省特別区行政長官代理に抜擢された。
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北京政府期の活動
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辛亥革命勃発直後の1911年(宣統3年)11月に帰国し、上海に到着した。馬君武は臨時政府組織大綱の起草に参加している。南京臨時国民政府が成立すると、実業部次長として部務を代理した。さらに臨時約法の起草にも参与している。袁世凱が孫文に代わって臨時大総統となると、馬君武は辞任し、中国鉄路公司秘書長に転じた。 1913年(民国2年)、参議院議員に選出されている。二次革命(第二革命)で孫文らが敗北すると、馬君武は再びドイツに向かう。ベルリン大学研究院などで引き続き研究を続け、工学博士の学位を取得した。袁世凱死後の1916年(民国5年)に帰国し、参議院議員に復帰した。 1917年(民国6年)7月、孫文が護法運動を開始すると、馬君武も南下してこれに参与する。大元帥府秘書・護法軍政府代理交通総長をつとめた。1921年(民国10年)4月、孫文が非常大総統に就任すると、馬君武は総統府秘書長に任じられている。7月には、広西省長に任命され、省政改革に取り組んでいる。しかし1924年(民国13年)1月、中国国民党第1回全国代表大会の際には、馬君武は章炳麟・馮自由らに追随して、三大政策に反対した。 同年11月、上海大夏大学校長となる。1925年(民国14年)4月には、北京工業大学校長に転じた。12月末に、臨時執政段祺瑞から北京政府の司法総長に任ぜられ、1926年(民国15年)1月に就任宣誓を行った。しかし、国民党からこれを党紀違反とみなされ、除名処分を受けた。1927年(民国16年)3月、教育総長に転じたが、今度は工業大学学生から反発を買ってしまう。結局、極めて短期間で辞任し、上海大夏大学校長の職に復帰した。
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