北京政府時代
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教師の家庭に生まれる。1919年(民国8年)8月、保定陸軍軍官学校第9期歩兵科に入学し、1923年(民国12年)8月に卒業した。最初は直隷派の呉佩孚に属したが、給与未払いに憤ってまもなくここを去る。次いで四川省で四川軍(川軍)指揮官劉文輝の上尉軍事教官を務めたが、1925年(民国14年)に辞任して帰郷する。 1926年(民国15年)、牟中珩は張宗昌率いる直魯聯軍に加入し、団長にまで昇進したが、部隊の維持費を供給されないことに失望して下野した。1927年(民国16年)、呉の下にいたときの上官であった于学忠が鎮威軍第20軍(奉天派)軍長となっていたため、これを頼り参謀として起用される。翌年6月、牟は東北保安司令長官公署参謀処長に昇進した。この時期に張宗昌が再起を図って灤州に軍を集結させ始めると、張学良の命で于と牟はこれを即座に包囲殲滅している。まもなく張学良の易幟により于と牟は国民革命軍に加入することになった。
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